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vol.9
1999.12.10





群青色の夜空の下で……

12月1日、午前5時25分。成田に来ている。
見上げる夜空は深い群青色に染まり、中空には細い下弦の月が浮かんでいる。JR駅前に止まっているタクシーに乗り込むと、運転手はあわてて仮眠していたリクライニングのソファーを直し「どちらまで」と訊ねてきた。「東峰十字路わきのラッキョウ工場まで」。
不躾に言うと、「えっ、ラッキョウ工場に行くんですか」、怪訝そうな声が返ってきた。その声を無視して「何キロくらいありますか」と訊ねると、困ったように「さぁ、何キロあるかな。行ったことないからな」と不安そうなそぶりだ。
無理もない。東峰十字路とは、運輸省と空港公団が2002年までに完成させたいとする成田空港暫定滑走路のど真ん中の地点を指し、ラッキョウ工場とは、成田闘争を闘った(いや、現在も決して闘争から降りてはいない)闘士たちが経営する、自然農法の作業場を指しているのだから。
そんなところに未明に訊ねていく男がいる。一昔前だったらまぎれもなく運転手は警察に通報することになったのだろう。
ひょっとすると過激派か。できれば事件には関わりたくない。途中でアクシデントに巻き込まれるのはゴメンだぜ。
運転手の背中には、そんな自意識が張り付いている。
−−−−12月1日暫定滑走路着工予定。
成田の現場で闘う友人が、僕の耳元で囁いたのは11月も半ばのことだった。反対派の機先を制し、早朝6時が予定時刻だという。すでに敷地内はほぼ買収が済み、周囲に鉄条網を張る作業も完了しているとのことだった。
行ってみておかないといけないな。
それが素直な気持ちだった。国家権力がその力を剥き身にする瞬間を見ておかないといけないだろう。もちろん四半世紀前の闘争期とは比べ物にはならないのだろうけれど、これから成田・三里塚を語ろうとするならば、このシーンを目撃しない手はない。鞄にノートとインスタントカメラを詰め込み、いつもは持たない携帯電話も入れて、僕はこの大地に立ったのだ。
午前6時。東の空が薄っすらと茜色に染まりはじめる。黄色い点滅を繰り返していた十字路の信号が赤と緑の通常のモードに切り替わる。
滑走路用地内を貫く県道には、早朝からトラックが猛スピードで行き来している。どこから機動隊が現れるのか。工事用トラックはいつ現れるのか。トラックの巻き上げる砂塵を浴びながら県道を行きつ戻りつしつつ周囲の気配に神経を集中する。
県道の途中に、ラッキョウ工場に繋がる農道が直角に延びている。初めてこの地を訊ねた日、「ここは戦場だからね」と語ってくれた農夫がいた。彼は佐渡に生まれ、早稲田に学び、闘争途中に三里塚に移り住み四半世紀をここで過ごしている。「日本のラッキョウの3%はここで作られているんだ、三越や高島屋にも出している」と淡々と語る口調が印象的だった。
あの日から約3年ぶりに訪ねたラッキョウ工場に、もちろんまだ人影はない。周囲の鉄条網には、折り紙で造った花輪がかけられ「カボス汁あります」の紙が風に舞っている。約一ヶ月前に終わったはずの反対派農家の収穫祭の名残のようだ。以前一度参加したその祭では、無農薬の野菜が振る舞われ、鳥肉や羊肉、卵等も美味だった。あの日、東京近郊や近隣から、数十人の親子連れが参加していた。酒が少し廻りはじめると彼らは、「僕は第四インターにいました」「管制塔を占拠したことがあります」と、傍らに幼い子どもを抱えながら言うのだった。そのアンバランスな言動が、僕にはこの大地の魅力として響いたことが思い出される。
結局、何もなかった。
午前6時25分。大地に杭を打つ槌音はこの日は響かなかった。日の出と共に県道に増え始めたのは出勤するマイカーだけだった。僕の気負いを嘲笑うかのように、当たり前の日常が始まっていく。おそらく、数日前から報道されていた一坪地主の最後の所有者が土地の譲渡に合意したことで、この日の計画は変わったのだろう。東からも西からも、何も現れなかった。僕はただ、早朝の成田の現場の空気を吸っただけだ。
やがて県道の東の端から、路線バスがやってくるのが見えた。停留所で確認すると、日に6本しかない貴重な「成田空港」行きだ。あれに乗れば行きに使った3000円のタクシー代を節約することができる。乗り込むと女子高生が二人と主婦が一人。眠そうな目でシートにうずくまっていた。
「神山さん、気持ちはわかるけれど、今成田を書いても誰も興味をもたないんじゃないかな。もう昔の事件なんだから」、、、どの編集部を尋ねても繰り返される編集者との問答が脳裏を過ぎる。そう、もう闘争は事実上終わったんだ。誰もが成田のことは忘れたいんだ。日常の連続の中に塗り込んでしまえばいいじゃないか。
バスの中の光景もタクシーの運転手の対応も、僕にそう語っているのかとも思う。
ところがバスが空港に到着する直前、目の前の風景が傾いた。
「何か写真付きの証明書を見せて下さい」。
停留所でもないところにバスが止まり、いきなり乗り込んできた制服姿の警官が居丈高に言う。えっ、と戸惑う僕に「免許証はありませんか」と追い討ちをかける。見ると女子高生は当たり前のように写真付きの証明書を見せている。おずおずと免許を取り出すと、警察官はそれを確認してから前方に向かって敬礼する。それを合図に2メートル以上ある鉄のフェンスが恭しく開けられ、バスはその中に滑り込んでいく。
再びブルッと武者震いを感じたのは、降り立った空港停留所の冷気のせいだけではないはずだ。日常の中に潜む異界の物語を紡ぐことが僕らの使命だとするなら、この大地、誰が何と言おうと放っておく手はない。


本日、デザイナーの浅葉克己さんから便りをいただきました。12月21日から26日まで、大田区池上実相時において中国の少数民族が使う現存する唯一の象形文字「東巴文字」の個展を開くのだそうです。「まだまだ研究途中ですが、1999年の浅葉克己はこんなカタチで報告いたします」と添えられていました。
同じ郵便受けに、かつて「幻の光」「落下する夕方」等の映画を制作した合津直枝さんからの便りもありました。12月15日23時〜NHKBS2で放送される「大島渚、映画と生きる」というドキャメンタリーを作られたのだそうです。そこにはこんな文章が添えられていました。
「大島さんの現場が同時代にあるのなら立ち会ってみたい。私は単身小型キャメラを持って京都に向かった。これじゃ密着どころか接着だと呆れられながら、、、」
これもまた、合津さんらしい99年の報告なのだと思います。
お二人の魂に触発されて、僕もまた皆さんへ、99年のご報告をさせていただきました。いつも長文で済みません。
少し早いですがメリークリスマス。
そしてよいお年を。まだ見ぬ物語を楽しみにしながら。

 

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