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vol.26
25.02.2003





深夜の自覚、ほんの少しの寂しさと

ある日ある時、思いがけずある担当編集者からこんなメールをもらいました。
「神山さんが去年二月に書いた清原和博にまつわる文章に対して、某社の某スポーツ誌のデスクから作品のオリジナリティを巡って抗議がきています。どんな事情なのか、恐縮ですが一度ご説明願えませんか」
それは、アエラ誌02年4月29日号に僕が書いた文章に対するものでした。エピソードが類似しているとの抗議だったのです。この世界で「盗用」「盗作」騒動は時々ありますが、自分の身に降りかかってくると一瞬慌てます。編集者にも心配をかけてしまいました。
でもそのことで、僕は久しぶりに自分の仕事を考える機会になりました。
恥を承知、言い訳ととられることを覚悟で、こんなことを考えたと表明したいと思います。
お時間ある時に、お付き合い下さいまし。


アエラ誌JK様

久しぶりに眠れない夜とやらを過ごしてしまいました。でも、思いがけず自分の作品と向き合う機会にはなりました。ご迷惑をかけて恐縮ですが、その意味では感謝もしております。

さて、2つの作品を再読いたしました。考えがまとまりましたので、ワープロに向かいます。朝日新聞とB社という会社間の関係はわかりかねますので、こんな言い分は相手には言えないとはわかっていますが、書き手としての正直な思いです。

前のメールで抗議してきた書き手のT君に対して「こんなことで怒るならノンフィクションなんか書くべきでない」と書きました。表現が稚拙だったと反省しています。こう訂正します。「このことを誇りに感じられないならノンフィクションなんか書くべきではない」と。

T作品と神山の作品と、質感が違うことは自明と思われます。T作品は事実に執着し、その勢いのままに新鮮に書かれている。対して神山作品は、独自のテーマを掲げ、作品がそこに収斂するように事実を如何に構成するかに作品の命脈がある。
あの作品の中で神山が書きたかったのは、大テーマに「天才の孤独」。中テーマに「自分自身を信じる力」「自分の最大の敵は自分」そして、「スポーツアスリートの自立」でした。
構成としてはそれを成立させるために必要十分な事実が配列されているはずです。
つまり言い方を変えれば、T作品は清原和博を書こうとして書かれた作品。
対して神山作品は、そのテーマを書きたいために清原和博をモチーフにした作品。
はなはだ僣越ですが、そう言う事ができると思います。

振り返ってみても、取材をある程度終えて構成にかかってからは、冒頭の「深夜の東名高速を一台の高級外車が疾走していた」という書き出しから、最後の「もう大リーグだけが世界一の闘いの場であるなどとは、誰にも言わせない」という一行まで、一分の妥協も揺れもなく如何に構成するかに必死でした。例え誰かに「この部分はこの構成を参考に」などといわれても、それは無理です。作品に殉じる事が書き手の宿命であり、テーマを立たせることだけが使命なのですから。
その結果でてきた文章があの作品でした。僕はとても誇りに思っています。

とはいえ、今回指摘を受けた「オリジナリティー」ということを考えないわけにはいきません。
不振のどん底で清原が密教修業にすがった。その過程で末期癌に冒された少年とであった。その存在と死が清原に強いインパクトを与えた。その結果、生き方にもプレーにも変化が現れた。
おそらくT君とB社はその「事実の三段論法」に類似点を見ているのだと思います。
けれどその三段論法を「作品のオリジナリティ争い」に使うのが如何に横暴であるかは、以下の例で明らかだと思います。
例えば唐突ですが、作品が豊臣秀吉を扱ったものだとしたらどうでしょうか。
ある戦いの最中、羽柴秀吉の元に主君である織田信長が明智光秀によって暗殺されたと急報が入る。秀吉は機転をきかせて毛利と和合し、そこから一転して復讐に向かう。山崎の戦いで光秀を破ったことで、彼は後に天下統一=「豊臣」と名乗るステップを刻み始める。
後に幾多の「太閤記」が書かれることになりますが、この事実の三段論法はどの作品にも共通のもののはずです。だからこそ作者と作品は、この三段論法からどんなテーマを引き出すか。あるいはどんなテーマを書きたいがためにこの事実を使うのか、が問われるわけです。この三段論法を使ったからといって怒る人はいません。逆に言えば、「太閤記」を書くのにそこを書かないことはとても勇気がいることでもあります。
ただし、こう言うこともできます。
仮に戦国時代を同時代で生きたジャーナリストがいたとしても、誰もがこの事実の三段論法を見いだせるとは限らない。視点が近ければ近いほど、歴史的事実を見抜くことは難しい。よく「その評価は後世の歴史家に委ねられる」という表現が使われるのはその証拠です。
こんなことは、今更僕が言うようなことでもありませんが。

その意味でT君が書かれた事実の三段論法は、その数カ月後に僕が取材の限りを尽くし、構成の限りを尽くしてもまだ生き残るものではありました。僕固有のテーマと構成のためにも使うべくして使われたものでした。それは秀吉の例にも似た「普遍性」を持っていると言っていい。仮に清原引退後、誰かがその評伝を書くとしたら、この時期の清原の孤独と苦悩を書く時にこの事実の三段論法は外せないはずです。僕は二番めにその三段論法を使ったものとして、そう断言したい。そしてT君の名誉は、同時代の書き手としてその普遍性を最初に見抜いたことにあるのです。
思えば長嶋伝説は、デビュー試合の4打席4三振をその端緒としています。そのことは繰り返し繰り返し様々な書き手によって意味づけされ物語となり、後に伝説に昇華します。今となっては誰があの事実を「物語」として最初に提示したのかはわかりません。けれどある時期に誰かがストレートニュースとしてではなく、構成された物語としてそのことを書いたはずです。そうでなければ移り気な人々の記憶なんて、当てにはなりませんから。その意味で僕は、清原にも幾多の伝説が宿ることを祈るものではあります。だからT君の名誉は、うらやましいものでもある。

ただし、表現方法ならいざしらず、事実の三段論法=エピソードに著作権はありません。まして清原本人があの時期を語る時に決まってその事実を並べるのであれば、唯一のオリジナリティは清原個人にあります。
だからこそ書き手はテーマに殉じるべきで、そこにこそ作品の命を宿らせるべきなのです。神のみが産み出すことができる事実を扱うノンフィクションにおいて、唯一のオリジナリティはテーマと構成です。そこでいかに読者を引きつけられるかが書き手の勝負。エピソードの囲い込みは、自死行為です。テーマなき三段論法の使用は書き手の恥ですが、同時にノンフィクションを名乗りながら自覚なき「スクープ主義」は、この世界を作ってきた幾多の先達の汗を踏みにじるものでしかありません。

テーマと構成。改めてそれこそがこの世界の醍醐味ですね。最近、臆面もなくそう言っている自分がいます。それに、自分の作品を読み返しながら、この頃時々泣けるんです。読者として、僕はけっこう自分の作品が好きなのです。
でも、こんなことを言うようになったら、焼きが廻った証拠ですよね。T君の、あの乱暴なまでの書きっぷりといちゃもんの付け方が少し羨ましい。僕はもうそこには戻れない。
ならば僕は、ここからは徹底的にテーマと構成に殉じるしかないのだと、深夜の寝床で覚悟しました。

そんなところです。如何でしょうか。いつかT君と会う機会があるなら、そう語るつもりです。
作品は本来個人の生き方の表明です。メディアの政争なんかに使われるべきじゃない。言いたいことがあったら直接言ってきてほしい。僕が直接手紙を書いてもいいならそうしますが。如何でしょうか。

少し書きすぎましたか。お許しを。
書き切って、気持ちのいい夜明けになりました。時間を取らせました。よろしくどーぞ。

ここまで書いて、夜明けになりました。
もう戻れない地点に来てしまっている。
そう思って書いていたら、眠気も覚めました。
戻らないといけない自宅があることもまた、事実ですしね。


 

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