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vol.23
2002.09.02





決着の夏

晩夏とはいえ暑い日が続きます。いかがお過ごしですか。
真夏の雲を見上げながら、こんな文章を書きました。
9月末、ぴあから上梓される「生きること、演じること」という、毎日新聞日曜版に連載した演劇人たちのルポルタージュをまとめた作品の後書きのための文章です。

「(前略)同時にこの20年は、私にとって大学卒業を前にしてフリーランスのルポライターという職業に興味を持った日から今日に繋がる時間の流れでもあった。社会に出るに当たって、私は文章を書くということよりも、日々フラフラと街を歩き人と出会い、次々とテーマを変えていける生活スタイルに憧れた。ある日ある所である人と出会い、何日か何カ月か同じ時を過ごす中で一遍の物語を仕上げてやがて別れていく。飽きっぽい自分には、映画「シェーン」のような生活が魅力に思えた。
 その最初の出会いが「演劇」だった。教官を説得して卒業論文の代わりにノンフィクション作品をまとめる事で納得してもらい、私は大学三年の秋から翌年の春にかけて大学内にあった劇団「山脈」の役者たちに張り付いた。日常の稽古、合宿、キャスティング発表の日、公演準備、そして四日間6ステージの公演の模様、等々。
 密着取材といっても、それは深夜下宿で酒を酌み交わす口実にすぎない行為ではあったけれど、その時書き上げた「春を呼ぶ風景」という約五〇枚のレポートは、まぎれもなく書き手としての私の赤面するばかりのスタートになった。
 けれどそれだけだったら演劇はそれほど深く私の中に根を張ることはなかったはずだ。信州の田舎の大学では、他に書くに値するテーマがなかったといってしまえばそれまでだ。私を演劇につなぎ止める「縁」となったのは、その物語に「続編」があったことが契機となっている。

 大学を卒業して二度目の春。大学に残る後輩から悲鳴の様な電話が入った。
「野口さんがトラックに跳ねられて亡くなりました」
 それは、高校時代は共にバレーボール部で汗を流し、大学に入ってからは「山脈」の舞台で活躍していた後輩の悲報だった。小柄ですばしっこく剽軽で快活で、教室では影が薄いが舞台に登ると妙な色気を発散する男。学部では落第を繰り返しながらも「山脈」では主役を張り、年に三度の公演を待ち遠しくさせる役者。もちろん私のルポにも登場し、自分の語り言葉や登場シーンの描写について酒の席で私をからかい、嬉しそうに笑っていた奴。
 はたして彼の役者としての力量がどの辺りにあったのか、地方都市の学生劇団と観客には計るべきメジャーもなかった。けれど、その存在の「傾き方」が演劇的である事は誰もが認める男だった。
 その野口が、ある日突然驀進するトラックに自ら頭から突っ込む様にして死んだ。
 確かに私が大学を去る頃から、彼は心の病に冒されていた。アルバイト先のうどん屋でお客を怒らせ、頭から出し汁を被せられても笑い続けていたという話が伝わってきたのは卒業後最初の春のことだった。寮の部屋に籠もり続け、山脈の部室にも顔を出さなくなった。誰が声をかけても生返事を繰り返し会話にならない。いよいよ友人たちの会話からもその話題が希薄になった頃、大学附属病院に修養された瀕死の重傷患者の身許確認が山脈の仲間の元に来たのだという。所持品もなく、靴に書かれた「のぐち」の文字だけが社会との繋がりだった。仲間が病室に駆けつけてみるとすでに意識はなく、全身を包帯でぐるぐる巻にされていたという。
 何のメッセージも残さずに、野口は突然私たちの前から去った。私たちはただ酒を酌み交わすばかりで、その死との距離感が取れなかった。余りに虚しく、無責任な死。納得できない。言葉にならない。宙ぶらりんな死。

 ところがそれから数年後、私は再び野口と向かい合うことになる。
 つかこうへいが七年ぶりに演劇界に戻った日。新宿・紀伊国屋ホールでたった一回だけ行われた「今日子」の客席で、私は突然かかったBGMに激しく身体を揺さぶられた。
 柳ジョージとレイニーウッド。「青い瞳のステラ〜1962夏−−−」。
 それは野口の歌だった。まだカラオケが演歌中心だった当時、酔えば伴奏もなく熱唱し、皆で肩を組んだぬくもりが身体に残っている。
 
 沖を通る貨物船眺め、テネシー・ワルツ歌おう。
 うまいもんさ、あんたに教わった、ちょっといかしたステップ。
 褒めてくれよブルーアイズ細めて、芝生の下で眠っていずに。
 褒めてくれよブルーアイズ細めて、芝生の下で眠っていずに。

 その時私は思った。演劇の神は、けっして野口を見捨ててはいなかったじゃないかと。元気な頃、野口も木村伝兵衛を演じた「熱海殺人事件」の作者・つかこうへいが、野口のために、憧れの紀伊国屋ホールでこの歌を用意してくれた。人生では神に選ばれなかったかもしれないけれど、その傾き方やよしと、演劇の神はお前を見捨ててはいなかったじゃないか。
 私は涙が止まらなかった。それが私にとっての演劇との出会いとなった。

 野口だけではない。出会っては別れてきた多くの人との思い出や記憶が、突然劇場で蘇る。自分自身の歩みや思考が、物語の中でなぞられて深まったり広がったりする。あるいは自分でも気付かなかった感情が物語の中で沸き上がり、涙と共に心に滲みていく。
 だから私にとって舞台で演じられる物語は、実人生の物語と等価だ。生きていく上でかけがえのないもの。生きていくために必要なもの。それが舞台にはある。

「それじゃ、稽古始めます」
 今日もまたどこかの稽古場で、演出家が役者を前に第一声を張り上げる。およそ一カ月後に幕はあがり、どんなに超満員の観客が詰めかけようとも何週間か後に幕は降りる。言うまでもないがその瞬間、全ての取り組みは跡形もなく消え去っていく。
 風に書かれる文学。演劇。
 あの日から二〇年後にこんな演劇の本をまとめる事が出来て、私もまた、演劇の神に深く深く感謝している。できるならこの思いが、野口にも届くといいのだけれど。」

 決着をつけたいな。
 この文章の着想から執筆にかけて思ったのはそのことでした。もう一七年も前の友人の死を書いて、はたして読者に通じるだろうか。一抹の不安はありましたが、いつかどこかでこのことを書かないと僕の中での決着がつかない。
 その思いの余り、書き進めてみたのでした。

 途中面白い事がありました。何人かの友人に当時の記憶を確かめると、いろいろな説が出てくるのです。「野口は即死だった」「いや病院で何日か生きていた」「うどんの出汁は野口が客に笑ってかけたんだ」「いや客が野口にかけたんだ」「靴の文字は漢字だった」「いや平仮名だったはずだ」等々。
 共に野口への思いは色濃く残しながらも、記憶は思った以上に恣意的なものです。暑く忙しい夏を過ごしているはずの友人たちには余計な記憶を辿らせてしまったなと反省しつつも、そんなやりとりに思わず笑みを浮かべている自分もいました。普段、その記憶を頼りに文章をしたためているノンフィクションって、一体何なのでしょうね。

 決着をつけること。思えば生きていくとは、そういうことの連続なのかなとも思います。
 例えば僕は仕事の中で、勝新太郎に決着をつけた。藤原喜明に決着をつけた。北朝鮮はもういいや。コンデ・コマにはまだ思いが残っている。小室哲哉はもういいのだろうか。坂井三郎さんには思いは届いたはずだ。ロック座の斎藤智恵子はどうだろう。清原和博には二〇〇〇本安打で決着をつけたい。猪熊功にはなかなか思いが届かない。文化を経済化する地域というテーマには、まだ時間がかかりそうだ。この秋は、是非ともバーニングの周防郁雄に決着をつけなければ。
 次々とそんな思いが巡ります。

 友人の一人がこんなメールをくれました。
「今回投げかけられた件は、またしても野口のすごさ、かわいさ、愛くるしさを充分に思い出させる機会になり、また今夜も40男一人が焼酎を飲みつつステラを聴いてしまいたくなったのでした。どーでもいいことにこだわってしまって申し訳ありません。ではまた」

 その酒は、どんな味だったのでしょう。決着の酒になったのでしょうか。
 少なくとも僕には、書く事によって一つの区切りは付いた気がします。振り返ればもう四〇年以上もあちこちに思いの種をまき散らしてしまった以上、その決着をつけるのにもまた同じ月日がかかるのかもしれません。
 一つ一つに決着をつけること。そう思えばあまり時間もありません。改めて褌を締め直す夏になりました。

 皆さんの夏は如何でしたか。実りの秋へ。近い内またお目にかかれたらと思っています。
 ご自愛下さい。


 

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