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vol.21
2002.05.06





タイゾー、タイゾー、タイゾー

「タイゾー?」「タイゾー?」「タイゾー?」
その村に入ると、砂利道沿いに並ぶ高床式住居のあちこちから、そんな声がかかってきました。
「Is this the way to the Taizo monument?」
そう問うまでもなく、自転車姿の僕を認めると、村人の方から「タイゾーに会いに来たんだろ」とばかりに、目指す記念碑の方角を指さしてくれるのです。
ここはカンボヂア。アンコールワットの門前町シエムリアップ。そのホテルから自転車で漕ぎ出して、炎天下40度の中を汗だくになってかれこれ2時間になろうとする頃、やっと目指す一ノ瀬泰造氏のモニュメントが見えて来ました。
「今度カンボヂアに行くことになりました。昨年亡くなったお父さまの遺品か何かを、泰造さんの元に届けるご都合でもありませんか」
出発前、久しぶりに電話をかけてお母さんの信子さんに問うと、齢80に近い彼女はしっかりとした声でこう答えました。
「ありがとうございます。それよりも、気をつけて行って来てください。去年泰造のモニュメントを地元の方が作ってくださったそうなので、是非見て来てください」
教えられた通りシエムリアップから遺跡バンティアンスレイを目指し、途中プラダック村を抜けた小道の茂みの中に、目指す泰造さんは眠っていました。
「僕のお父さんがタイゾーがここに連れて来られるのを見たんだ。ここでクメール・ルージュに撲殺されたんだ」
モニュメトを護る青年が言います。
今から29年前、「地雷を踏んだらサヨナラ」という言葉を残して、ポルポト派=クメール・ルージュが立て籠もるアンコールワットを目指したカメラマン、一ノ瀬泰造。当時アンコールワットとクメール・ルージュは世界中のジャーナリストのターゲットであり、その写真には一枚2万$の値がついていたといいます。けれど泰造さんの存在が今も語られ続けるのは、その撮影に成功したからではありません。
むしろその行動は経済的野心よりも、若者の衝動に裏打ちされていた−−−。誰もが二の足を踏んだアンコールワットに単身丸腰で乗り込んでいくことは、どんなに戦場取材に長けようとも処世術を身につけてしまった「プロ」のカメラマンにはできないことでした。
「何故ベトナム戦争を撮るんだ。何故カンボヂアに入るんだ」
周囲からそう問われても、泰造さんは軽く微笑むだけだったといいます。一度は不法滞在がばれて国外への強制退去になりながら、職業を詐称してまで再び潜入したカンボヂアの魅力。それは大国の野心に端を発する戦火への憎しみ、この地で生きる人々への愛情、そして自らを突き動かす「衝動」だったとしか言いようがありません。
「文章を生業にするなよ」−−−−
その事を思い出すたびに、僕は、会ったこともない泰造さんの声が聞こえてくる様な気がします。どんな仕事でもどんな相手でも、与えられた空間を埋める文章を書くためではなく、自らを突き動かす「衝動」の源泉として出会うこと。その結果として、ほとばしる様に文章を紡ぐこと。
そのことを僕は泰造さんに教えてもらいました。そしてそれを忘れないために、大学を卒業したての僕は、取材ノートの表紙に「for the AngkorWat」と書き付けたのでした。

思えばこの旅の発端は、カンボヂア、タイ国境付近の地雷除去活動を行う日本のNGO取材でした。
アスファルト道路下の陥没をレーザーで調査するベンチャー企業・ジオサーチの元に、ある日、国連から問い合わせが来ます。「その技術を地雷の発見に活かせないか」
それまで地雷などと無縁だった青年社長・冨田洋は、このひと言からあれよあれよという間にスイスの国際会議に引き出され、世界中の紛争地に埋まる地雷の実体を知らされることになります。
「特にアフガン等で使われた、子どもの手足を負傷させるバタフライ型の地雷が許せなかった」
冨田は言います。その怒りが源泉となり、地雷探査用レーダー「マインアイ」の開発と、現地での除去作業を続けるためのNGO作りが始まります。
とはいえ、メコン・デルタの現場は、日本のビジネスマンの想像を絶する難関でした。
「とても今の装備では除去作業を続けることは出来ません。そもそも地雷源にまでたどり着くことができないんです。悪路を走り抜く屈強な自動車も必要だし、灼熱の太陽の下でモニターを見るためには、特殊な液晶技術も必要です」
ある日、カンボヂアの現場から、冨田はすがる思いで日本の後見人に電話をかけます。すると後見人は答えました。「よし、なら日本の企業を総動員して支援機器を揃えよう」
それがセコム会長飯田亮であっただけに、支援の輪がIBM、日本郵船、オムロン、ホンダ、シャープ等に広がり、活動のためのバイク、液晶画面、機材輸送、そして約五年の歳月をかけての新型マイン・アイの完成へと繋がります。
現在、タイ・カンボヂア国境で行われているマイン・アイのテスト・サイトでは、システムを設計したIBMとレーダーを開発したオムロンの技術者、そしてジオサーチの技術者がはりついて作業が続いています。例えば太陽に焼かれ干からびた大地がレーダー機能を十分に作用させないこと。電波に過剰に反応する赤土が意外に多いこと。従来除去作業に使われて来た金属探知機や重機との作業のコンビネーション等、日本の研究室では対処できない事態が現場では次々と起きて来ます。
「でも私はここに来たかったんです。自分の参加したシステムが人を助けることになるならと、上司にお願いしてこのプロジェクトに参加させて貰いました」
IBMの女性技術者が言います。彼女はタイは二度目とはいえ、バンコクから車で四時間もかかる国境地帯に足を踏み入れるのはもちろん初めて。紫外線を防ぐために大きなつばの帽子を被り日焼け止めクリームを入念にぬりながら、彼女は約二週間この地での作業に望もうとしています。
そもそもこのプロジェクトはボランティアですから予算がありません。IBM社内でも、人材、機材、労働時間等はひねり出すしかありません。最終的には昨年秋、外務省から「草の根支援資金」五千八百万円が出たことで新型マイン・アイ二台の開発にGOサインが出ました。一台あたりの予算は千二百万円。世界初の地中地雷探査レーダーに対してこの値段では、部品代しか賄えないのは周知の事です。
けれどその登場は、現場には朗報でした。
「今迄私たちは音だけを便りに除去作業を進めていました。でも、これを使えば目で地雷の状況を見ることができる。大変な作業効率アップを期待しています」
タイ国軍の地雷除去チーム、T−Macのリーダーが言います。
現状ではまだマイン・アイはテスト段階で、この地の土質や気温、湿度等への調整・改良が繰り返されています。が、2年間で地雷源の0・2%しか進めなかった現場での期待は大いに高まっています。
その現場の状況を炎天下で取材しながら、僕は感じていました。
ここにも「衝動」がある。
泰造さんの時代から約30年。かつて「地雷を踏んだらサヨナラ」とジャーナリズムの先輩たちが散っていった大地に、今はビジネスマンを中心とした地雷除去の活動が広がります。

とはいえ、人はその活動に触れると「それはご苦労さまです」と笑顔を見せるのが常です。「私どもの企業でも、できるだけの協力はさせていただきます」と言う経営幹部も少なくありません。
けれどその裏で、「何故日本人がタイやカンボヂアにまで出かけていって地雷除去をするのか」「何故企業が金や人を出さなければならないのか」「何百年かかるかもしれないような作業を、何故始めるのか」という意識が張り付いているのもまた事実です。
ならばこの地に広がる「衝動」を、如何に日本に伝えるか。それが現地を踏んだ僕の使命となります。

for the AngkorWat。
あの日、ノートの表紙にそう書いたのも、この世界に入って右も左もわからない僕の衝動からでした。
もちろんそこからどんな未来があるのかは予想もつきませんでしたが、自分にとってのアンコール・ワット探しがこの仕事の羅針盤になることを、朧げに思っていたことは確かです。
あの日から約17年。
姿形は変わっても、若者を突き動かす衝動のエネルギーが普遍であることが今回の取材で書けたなら、泰造さんも微笑んでくれるのではないか。
そう信じて、今日もノートを手に、街へ出ようと思っています。

※地雷除去NGO、JAHDSの活動は、http://www.jahds.org/をご参照下さい。


 

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