ロゴ







vol.20
2002.02.05





失われた10年なんて……

二人の男に出会いました。指揮者、佐渡裕。プロ野球選手、清原和博。
出会い、インタビュー、周辺取材、構成、執筆。それらの過程を通して二人の存在が僕の中に浮かび上がらせてくれたのは、「失われた10年なんて−−−」という言葉でした。確かに日本経済は、敗戦後から営々と続いてきた右肩上がりの成長が止まり、10年前の状態に戻ったと言われています。そこにどんな失敗があったのか、どんな喪失があったのかはよく語られるところではあります。けれどその10年間に自分自身の中にあった奢りや狂乱を一人一人が本当に見つめているのかと問えば、ここでも無責任体質は横行しています。一体何が「失われた」のか。他動詞で語っているうちは、そこから何かを「得る」ことはできないはずです。「失った」と自覚してこそ、次の一歩が始まるのに−−−。

「全ては僕の甘えから引き起こしてしまったことでした」
佐渡裕は、繰り返しそう言いました。
その時僕が訊ねていたのは今から10年前、90年前後の彼の状況でした。89年にブザンソン・コンクールで1位となり華々しく世界デビューを果たし、日本でもいきなり新日フィルや大フィルを振るようになった頃の事です。日本では正規の指揮者教育を受けず、京都のママさんコーラスの指揮をしていた若者がある日タングルウッドで突然バーンスタイに認められ、そこから世界へ羽ばたいていく。その「下克上」とも言えるビデューと「バーンスタインの最後の弟子」というキャッチフレーズは新鮮でした。
けれどこの頃、彼は深い悩みの淵にあったといいます。
「不安でした。どこまでやっていけるのか。全く前が見えませんでした。当時は新婚の妻とウイーンで暮らし始めていたこともあって、僕は自分自身を見失っていたと思います」
ブザンソン・コンクールの期間中、彼は結婚以来初めてホテルの部屋で一人の時間を持ちます。もちろんコンクールの勉強のためにスコアと格闘する時だったはずですが、それはまさに狂乱の時だったといいます。部屋を思い切り散らかし、トイレも流さず、空腹を覚えればひたすら食べまくり、水を一リットルも飲み干す。その狂乱が全て音楽のためなのだと自分で気付いた時、彼はこう自覚して却って安堵したのだそうです。
「僕はここまで狂えるのか。ここまで集中できるのか−−−」

問題はここからです。この頃のことを書くために時系列を調べていくと、彼はこの後93年に離婚しています。そしてその直後に長女が産まれているのです。それは何を意味しているのか。僕自身、99年に長女が産まれているので、この事実は余りに強烈でした。何度かのやりとりの後、彼はこんなメールを送ってくれました。

「今もはっきりと覚えています。「俺な、もっとわがままに生きたいねん。」
かみさんは「そうや、裕ちゃんは自分の好きなように生きる事が出来る人やと思うよ」
そう言ったかみさんに電話で伝えた自分の最高のわがままは、「離婚してくれへんか」でした。
好きな時に勉強し、好きな時に飯を食い、好きな時に恋愛をし、それを望むなら、結婚なんかするななんです」

そんな波乱の10年を過ごした彼は、今、世界でも最も輝いている指揮者の一人です。例えば大阪で一万人の第九というコンサートがあります。前任の指揮者は一万人を集めてもリハ1日、本番1日のイヴェントにしていたそうですが、3年前に彼が指揮台に立つようなってからはプロセスがガラリとかわりました。参加者は半年かけて何度も練習を繰り返し、11月には佐渡自身が千人づつ10回のリハーサルを行い、その上でゲネプロ、本番へと進みます。オーケストラもかつては3つのオケの全員が参加していたのものを「それでは演奏にならない」といってバッサリとメンバーを絞ったのも佐渡でした。あくまでも一万人の演奏会でなければいけない。それは音楽に狂うしかない男の当然の判断だったのです。

佐渡の音楽への情熱を表現するために、僕は長女の誕生とそれに重なる離婚を書きました。事実関係を問うために佐渡にメールすると、彼はこう返事をくれました。
「これは事実です。○○子もこのことはわかってくれると思います」
そしてつけくわえて、上記に記した元妻とのやりとりを送ってくれたのです。その文面を読んだ瞬間、僕は不覚にも涙が止まりませんでした。
10年の疵をしっかりと受け止めた男。彼はしっかりと「失った」ことを自覚しています。だからこそ、次の10年を闘うことができた。僕にはその「覚悟」が美しかったのです。

「名古屋から東京まで、深夜一人で車をぶっとばしたこともありました。アクセルを踏みっぱなしで、ブレーキは一度も踏まなかった。このまま事故で死んでもそれはそれやと思っていました」
それが清原和博の言葉である事が信じてもらえるでしょうか。甲子園での栄光、球界のエリート。ジャイアンツの主砲。そして巨万の富を得た男−−−。
けれどその陰にある97年から2000年にかけての深い深い失意の季節のことを、彼はそう表現してくれました。インタビューの場になった青島グランドホテルの一室に現れた彼の肉体は、数年前とは比べようもないくらい太く大きくなっていました。この日も午後一時過ぎにはグラウンドでの練習を終えたにもかかわらず、その後個人契約しているトレーナーとのウエイト・トレーニング、マッサージ等を三、四時間行い、部屋に現れたのは午後六時過ぎでした。聞けば合宿での食事にも独自のメニューを持ち込み、肉は鳥だけ、水も持ち込んだものだけしか飲まないといいます。
「日本で33歳から肉体を創り直して成功した選手はおらんでしょう。ならそれに挑戦してみたいと思ってるんです」
振り返れば彼の20代は、10代に築いた「富」を取り崩しながら過ぎて行ったといっても過言ではありません。30歳で巨人に入り、打撃不振からファンのバッシングを受け、怪我やスランプに悩まされます。
深夜の東名高速をフェラーリで疾走したのは、名古屋の球場で自分の打席にだけファンの応援が止んでしまった試合の後だったと言います。
「長島さんは神様ですから。一人一人の悩みになんか降りてきてはくれませんよ」
終始固かった彼の表情も、そう言った時だけは少し崩れました。その寂しい笑顔の分だけ、彼は孤独なのです。
けれどそこから彼は立ち上がります。鹿児島の禅寺で修行し、そこで肺ガン末期の青年と出会います。初めて「死」と向かい合い、「こんなことでめげている自分が恥ずかしい」と痛感する。「サインをいただけませんか」。そう言い出したのは清原で、「ガンバレ!」と書いたのはその無名の青年だったといいます。やがて結婚。そして今のトレーナーと出会い、シアトルでのトレーニング。そこから現在の食事方法とトレーニングが始まって行きます。
「僕は大阪の田舎もんです。その男が一人で大東京の大巨人で闘ってるんです。ガンバって大阪の人に恩返ししたい」
球界が世界へ、メジャーへとなびいている時に、この言葉は何とも素朴に聞こえます。けれど振り返ってみれば、舞台をアメリカに選んだところで、そこだけが世界一の場ではないはずです。たとえ草野球の球場でも、世界に誇る挑戦は行える。なぜならスポーツ選手にとって、いや人間としての最大の課題は、自分自身の限界との闘いなのだから。
「失った10年」を自覚し見つめる事で、清原は去年よりも今年「上昇」しようとしています。自ら失った事を自覚したからこそ、次のスタートラインにつけたのです。僕はもう少しそのプロセスを見つめ、春頃には文章にしたいと思っています。

皆さんの新春は如何ですか。長くなりました。恐縮です。
佐渡さんの作品は18日発行のアエラに載る予定です。立ち読みでもしていただけたら幸いです。
寒さが続きます。ご自愛下さい。今年もBazaarExpressをよろしくお願いいたします。


 

Salon
CinemaSportsEnglish Articles
|Works for Magazine

diary | profile | works | bbs | top
Copyright (c)2004@the bazaar ALL RIGHTS RESERVED