ロゴ







vol.19
2001.10.30





人生の光と翳

「井上、いいかっ」
「まだまだ」
「いいかっ」
「まだまだっ」----
その時、新宿駅前のビルにある東海建設社長室には、つんと鼻をさす鉄分の匂いが充満していたといいます。
9月28日金曜日、夜7時過ぎ。刃渡り40センチの短刀を自らの首に突き刺しながら、部屋の主・猪熊功氏は、介錯として立ち会った社長室長井上斌氏に対して頸動脈が確かに切れたかどうか確認していたのです。
「事件後、何を書かれても腹立ちはしませんでしたが、訂正して欲しかったのは、いくつかの雑誌が「乱雑な部屋」とか「ビールの空き缶が散乱」といった描写をしていたことでした。猪熊は決して取り乱すことなく、最後まで冷静でした」
事件後3日目に会った井上氏は、これもまた驚く程冷静にそう言いました。鞄から約30通の遺書の束を取り出すと、「これを使って真実を書きたいのです」とも言います。そこには、決行の二週間前から、二人がその瞬間を心身ともに最高の状態で迎えるために合宿してきた軌跡が書かれていました。決行の直前にも空き缶やビンを流しに捨て、背広や鞄が汚れないようにロッカーにしまうことを、猪熊氏は忘れずに井上氏に指示したといいます。
死してその経営責任をとらんとする者と、ボクシングのトレーナーさながらにそれをサポートした者と。
今となればその末路に様々な批判を加えることは可能ですが、その凄惨な現場は、死してこそ己の人生を生ききるという冷徹な意志に裏打ちされたものでした。
「葉隠」は言います。「図に外れて生きたらば、腰抜けなり。(略)図に外れて死にたれば、犬死に気違いなり。恥にはならず」
「犬死に」ではあっても「恥」にならない生を。それは、金メダリストであるがゆえの悲劇であったという見方もできます。
「私はそのことを驚きはしないけれど、猪熊さんは武道家の究極の目標である「間合い」を取り間違えたわね」
その日から約一カ月後。中国寧夏回族自治区・銀川の空港で私にそう呟いたのは今年75歳になる武道家、そして京劇役者、三宅綱子女史でした。大戦中に講道館に入門し、初代女三四郎とも言われた三宅さんは、昭和60年、銀川に招かれて半年間柔道コーチとして活躍します。その時京劇と出会い、以降日本で研鑽を積んで、今回、草原の中の懐かしの街でプロの京劇役者の助けを借りて、ビデオ収録用の公演を行ったのです。現地では、「中国語もままならない日本人が、中国人でも難しいとされる京劇の武劇の男役を演じ、しかも75歳の高齢で見事なステージを見せた」と大絶賛でした。ステージ前はさすがに緊張の色も見えた三宅さんでしたが、それが終わると、やはり武道仲間の猪熊さんのことが気になったようです。
「私は75歳になって、死ぬまで武道とかかわりたいと思って、武は舞に通じるというポリシーで京劇を始めました。最後の日まで、自分の身体を使って演じられたら本望です」
何かのパーティーの折りに、そんな挨拶をされていたことも思い出されます。
75歳にして旧知の仲間に囲まれて、立派に一つの舞台を創った人と、一人の仲間に看取られて異界へ旅だった者。
共に武道に生き、武道に殉じようとする覚悟には一点の濁りもありませんが、自身を照らす光源との「間合い」の取り方に、微妙な差異があったのでしょうか。
三宅さんはいいます。
「私の時代には女子柔道は試合がなかったの。私は欧米のように早く試合をしないと日本は遅れると言い張ったけれど、試合がなかったからこそ私の真剣勝負はスポ.ーツにはならなかった。だから金メダルなんて、自分で自分に与えるものだったわね」
確かにスポーツ的な価値が広まってしまったことで、猪熊さんの視界に「己」以外の何者かが棲みついてしまったという見方もできるかもしれません。その棲みついたものは何だったのか。何がその間合いを歪ませたのか。もう少し突っ込んで書いておきたいと思っています。
少々深刻な話題になってしまって恐縮です。皆様の秋は如何ですか。
猪熊氏の「自害の真相」は11月発売の月刊現代誌に。三宅氏の京劇ツアールポは、いづれどこかの媒体に(まだ未定なのですが)、書きたいと思っています。機会がありましたら、ご笑覧いただけたら幸いです。
気がつけば、年末までもう二カ月なのですね。ご自愛下さい。

 

Salon
CinemaSportsEnglish Articles
Works for Magazine

diary | profile | works | bbs | top
Copyright (c)2004@the bazaar ALL RIGHTS RESERVED