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vol.16
2001.02.22





このメールこそ……

「役者は稽古ですよ。稽古すればうまくなるし、しなければ下手になって捨てられる。それだけのことです」
毎日新聞日曜版に連載している「芝居あやとり」の取材で、役者・古田新太のこの言葉に出会った。当たり前の事ではあるけれど、その言葉の裏にある「事実」に感じるものがあった。
劇団☆新感線といえばどれくらいの人がご存じだろうか。大阪芸大の学生劇団が成長し、今や東京と大阪で4、5万人を動員するまでになった。劇団としてこれだけ長く公演を打てるのは、四季を除けば他にない。パルコ、東宝、松竹といった大手興行会社が主催にまわり、入場料8000円でもチケットは即日完売となる。
中でも劇団のエース、古田新太は舞台役者として今最も旬な存在だ。劇団公演だけでなく、野田秀樹、蜷川幸雄、松尾スズキ、鵜山仁といった演出家の舞台に登り、年間四本の大劇場公演をこなす。稽古に一カ月、舞台が一カ月から一カ月半、つまり年中舞台に立つ幸せを掴んだ選ばれた役者なのだ。
その古田が、学生時代の稽古を語ってくれた。
「僕らは昼から夜10時迄、一日10時間稽古してました。しかも年間10本公演とかやっていましたから、年中10時間稽古していたことになります」
それだけではない。小学校の演劇鑑賞会で四季を見てから舞台役者に憧れていたという古田は、独自にクラシックバレエや歌のトレーニングも行っていた。来日したヌレーエフのバックで踊ったこともある。通学の車内も稽古場だった。常に台詞を語り続け、時には車内を爆笑の渦に巻き込んで一人ほくそ笑んでいたという。
しかもそれだけ稽古しても、決してエネルギーが内輪に留まらなかったことが今の新感線の成長に繋がっている。
公演が終わった打ち上げの席で、大入袋が出て酒が廻り始めた頃、上座の演出家から役者の名前が呼ばれる。その瞬間に座のテンションは一気に高まり、すすり泣きすら聞こえて来る。
「お前ではもう遊べない。演劇を続けたいなら他の劇団を紹介するよ」−−−
あくまでも優しい口調で演出家は役者を斬り捨てる。
「僕も演出家に対しては、面白くなくなったらいつでもやめると言い続けていますが、演出家も僕をクビにするカードを常に持っています。だから劇団とはいっても、毎回選び選ばれる関係です」
お互いに選ばれた者たちは、大阪での稽古が終わると機材をトラックに積み込み、「青春18キップ」を握りしめて夜行列車に飛び乗るのが常だった。勤め帰りのサラリーマンたちの中で一升瓶を回し飲みし、歌を歌い、大声で笑いながら東京の劇場を目指す。まさに「選ばれし者の恍惚」のなせるわざだ。
古田が初めて東京の舞台にたった時、演出家の木野花はその演技を見て「そんなにうまいと早死にするよ」と言ったという。それは古田の才に向けられたものではなく、膨大な稽古量に対する賛辞だったのだ。
かつて梅田の駅裏の廃墟やキリスト教幼稚園だった新感線の稽古場は、今では都内でも指折りに高いといわれる豊洲にある東宝の豪華な稽古場に変わった。36歳になる古田は市村正親についで高額なギャラと言われるようになり、正月の舞台では共演者の降版を巡って劇場のプロデューサーに土下座させたこともある。
時は確実に流れたけれど、演劇への傾き方は20代の頃と変わらない。年に半分稽古、半分本公演というスタイルを、何よりも誇りにする舞台俳優だ。
「三カ月も舞台から離れるともう不安で不安で。それもテレビドラマに出ない理由の一つではあるんです」
古田はそう言って、稽古場に戻って行った。
さて自分はどうだろうかと独りごちてみる。プロフェッショナルとして己の存在を裏打ちするものがあるだろうか。どの雑誌に書いたとか、どこに連載を持ったとか、何冊本を出したとか、そんなことがプロの証しではないことは明白だ。しいてあげれば書かなければ前に進めないテーマや事実にぶつかった時、思わずワープロに向かっている自分がいる。事務所迄の道すがら、歩きながら呟いて原稿を構成し、事務所に戻るとすぐにワープロでたった今唇から出てきた言葉を書きなぐる。
書き上がるとたいていは再構成することもなく、読んで欲しい人にだけメールに乗せて送り届ける。かつては印刷、郵送という段階があったけれど、今は「生」で瞬時に相手に届く。それが迷惑なことも省みず、僕が生きるために、それは必要な作業なのだ。
だから、「このメールこそ」。

 

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