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岡谷御柱ーー「諏訪・御柱祭り、もう一つの奇祭り」

 「御柱祭っていうのはねぇ、人が死ぬ、怪我をするって言われるけれど、地元の人は祭のために長い時間かけて酒を断ち精神を高めて行くから、そんなに事故はないんですよ。むしろ冷やかしで来た余所の人が事故に巻き込まれてしまうんだよねぇ」
 岡谷駅から「カノラホール」に向かう道すがら、乗り込んだタクシーの運転手がそんな言葉で祭の解説を始めてくれた。長野五輪の開会式で荘厳な木遣り歌が流れた年、長野県諏訪湖一帯に約二〇〇〇年伝わる奇祭は全国区の知名度を得た。同じ年の一一月、もう一つの御柱祭が諏訪湖に面した岡谷市で市民参加型オペラとして幕を開けようとしている。「御柱」と口にした時、運転手は堰を切ったように祭のことを語ってくれた。地元の人と祭との関係は十分にわかる。はたして、オペラのことは知っているのだろうか。
「オペラですか。そういうのがあることは聞いていますが、さぁ、どんな舞台になるのか、ちょっと想像もつきませんねぇ」
 人口約六万人の長野県岡谷市。かつては製糸の町として、戦後は精密工業のメッカとして栄えた工業の町だ。その町に平成元年、総工費○億円をかけたカノラホールが誕生。当初から県内でも有数の事業費を獲得して意欲的な催しが行われてきた。開館一〇周年を迎える平成一〇年、いよいよ念願の市民参加オペラを創ることになった。したも題材は、市民たちが誇りとし、先祖から受け継いできた御柱祭。はたして物語として成立するのか、舞台としても成功するのか。タクシーの運転手の口調からは「祭を舞台化できるのか」という揶揄も感じられる。期待半分冷やかし半分というのが地元の人の正直な感想のようだ。
 ホールに着くと、本番を前にゲネプロが行われていた。舞台袖からは、緑の衣装を纏った一五〇名以上の市民合唱団が今まさに階段状の舞台に登場しようとしている。暗がりの中で舞台監督が叫ぶ。
「場あたりの蛍光テープの外側には絶対に踏み出さないようにしてください。高さ三メートルです。落ちたら大怪我をします」
 やがて全員が階段舞台にスズナリになると、今度は照明の説明が始まった。
「今回は照明にレーザーを使っています」
 オーッと合唱団員から驚きの声があがる。
「これに当たっても体は切れませんが、じっと見ると目をおかしくします。気をつけて」 ホール玄関には巨木と綱が鎮座し「奥山の大木里に下りて神となる」と記されている。受付けには合唱団の参加確認リスト。ソプラノ四二、アルト四七、テノール二〇、ベース三一といった数字が読み取れる。応接室はゲネプロから本番終了までの四日間、指揮者の控え室になる。入念な掃除も終了した。
通し稽古直前、ステージでは舞台監督が再び声を張り上げた。
「では皆さん、この入退場をスムースに行うために何度か稽古したいと思います。よろしいでしょうか」
 舞台に登場して無事に下りて来ること。そのことが市民合唱団の最後の練習になった。


 今回のオペラが誕生する契機になったのは、諏訪湖畔での二人の男の出会いだった。一人はオペラ作曲家、戯曲も手がける琉球大学教授、中村透。もう一人は沢田祐二、服部基らと並ぶ日本の舞台照明家の草分けの一人、平田尚文。平田は、照明スタッフとして約二〇年間市民オペラ創りにかかわった神奈川県藤沢市市民会館の職を辞した後、八九年から請われてカノラホールの館長に就任していた。
 九四年、平田は開館一〇周年の九八年を睨んだオペラ創りに着手する。市民の中からあがってきた「オペラをやりたい」という声に応えてカノラ芸術祭実行委員会を組織。下地を作った上で作曲者として中村に白羽の矢をたてた。制作の時間を考えると脚本と曲の両方が書ける人が望ましい。平田の頭には九〇年に中村が作曲し、半ば戯曲も手がけた「キジムナー」という作品があった。何人かの候補の中から条件を絞って行くとこの人しかいない。そう思って電話をかけ、岡谷に来てもらったのが最初の出会いだった。
九五年の早春のことだ。
 もっともこの時の印象を中村に聞くと若干のズレがある。平田はすでに中村に依頼することを決めていたと言うが、中村は「試されている」と感じたと言う。岡谷で平田や実行委員たちと初めて宴を持った時、夜も更けてから一人の実行委員がこう言った。
先生、どのくらい諏訪のことを下調べして来られたんですか−−−。
「随分誇り高い人たちだなと思いました」
中村は、当時を振り返る。
「実行委員だけでなく、その後出会った街の人たちも御柱のことになると顔つきが変わります。自分たちのことは諏訪人とも言う。この人たちの生活心情に分け入っていかないと書けないなと思ったんです」
 この時から、この驚きをエネルギーの源泉として、中村の取材活動が始まった。
 資料を取寄せ、文献を読み込むことはもちろんのこと、諏訪湖一帯の茅野、原村、天竜川沿いを延べ四〇日かけ歩き回った。北海道に生まれ東京に学び、沖縄で二〇年以上生活して来た中村にとって、長野は初めての地だ。「余所者」でしかない。それゆえ中村は訪問時期も四季を意識し、正月を岡谷で迎えたこともある。周辺の祭にもできるだけ参加した。
 道案内を買って出てくれたのは、実行委員の面々だった。古老や旧跡を紹介し、様々な角度から民話や伝説を採集する中村の良きパートナーとして、実行委員たちも脚本作りにかかわった。
 中村が考えていたのは、この地に生きている人の感覚を「肉化」することだった。
「例えば諏訪湖の周囲の峠に登ってみると、恐怖を感じます。谷間は暗くて誰かがついてくるような感じがする。逆に峠に出ると急に明るくなって時間の感覚がわからなくなる。昔の人はこういう感覚から人攫いの伝説を創っていったんだろうなと身体的に理解できるんです。地元の人の生活に入って突き抜けて、向こう側から逆照射する。そういう作業を続けて行くと物語が「来る」瞬間があるんです。書かざるを得ない所までモチベーションを高めないと、いい物語は書けないと思います」
 中村は「キジムナー」の時は八年かけた。「御柱」の取材、構成、執筆には丸四年。原稿用紙を前にする頃には、地元の誰よりも御柱に対して造詣が深くなっていたという。
 一方平田もまた「余所者」として、ある種の執念でこの一〇年を生きてきた一人だ。
 前市長林泰章が語る「文化作りは人作り」の言葉に共感し、新しいホールのアドバイザーのつもりで岡谷にやってきた八九年、平田はホールを開けてすぐにショックを受けた。開館一年目に実行委員会を組織して大成功に終わった市民合唱団の「第九」が、二年目になると急に活動が萎んでしまったのだ。誰も本気でチケットを売ろうとしない。一年目の熱気がない。照明を通して舞台作りのプロを自認する平田には、それはアマチュアの甘えに映った。平田は言う。
「一年目の成功で、これなら市民オペラも早い時期にできるかなと思っていました。ところが二年目の落差が激しくて、これは熱しやすく覚めやすい土地柄だなと思ったんです。機が熟すまで、しばらく時間が必要だと思い直しました」
 平田には、オペラに対する強烈な原体験がある。溯ること三五年前、新進の照明家として油が乗り切っていた時、平田は東京日生劇場の柿落とし公演のスタッフとなる。演目は初来日のベルリンオペラの一ヶ月公演。準備に一ヶ月かけ、幕を開けてからも連日日替わりで演目を変えていく舞台の袖で、平田はあまりの素晴らしさに足の震えが止まらなかった。今まで参加して来た日本の作品は何だったんだ! 強烈なカルチャーショックだった。
ドイツ人の照明家はプランナーとその助手五人の編成だった。彼らは平田たち日本人スタッフに細かな指示を出すと夜一〇時には帰ってしまう。平田たちはその後二時三時まで仕込みをし、翌朝一〇時からのリハーサルに備える。ほとんど寝る間もない二ヶ月が、あっという間に過ぎていった。
「でもその時、千秋楽の後で互いに涙を流しました。言葉は通じなくても、同じ目的に向かって仕事をすれば心が通じるんです。それがオペラです。アマでもプロでもそれは変わりません。今回の「御柱」でも、苦労が大きいほど跳ね返って来るものも大きいはずです。それがあるから舞台はやめられないんです」
 地域を創るためには、市民と創造活動をしなければ駄目だというのが平田の口癖だ。それはベルリンオペラ以降、藤沢市で何本ものオペラを手がけてきた実感でもある。しかもそれは館の主導では意味がない。市民の中から湧き上がるものが不可欠だ。開館二年目以降、いくつかの自主企画をこなしながら、平田はじっと市民たちの活動を凝視していた。いつになったら機が熟するのか。どうすれば次は失敗しないで熱を上げられるか。あるアイディアを抱えながら、平田は待った。
雌伏五年、やがてチャンスが来た。
「九三年に藤原歌劇団の「椿姫」公演をやった時に、やっぱり自分たちでやりたいという人が出てきました。カノラさん協力してくれないかとお願いがあった。この時とばかり、私は動きはじめたのです」
 平田がまず着手したのは、かつての第九実行委員会の主要メンバーの総入替えだった。平田から見ると、その組織は長老支配の弊害から硬直化していた。若いメンバーを大胆に起用しないと、動脈硬化が起きる。それは、岡谷という町の世代交代を意味していた。
「会長とは一対一で話し合いました。最後にはわかってくれ、カノラが事務局を作って一緒にやってくれるならと身を引いてくれました。そこから新しいメンバーでカノラ祭実行委員会と名前を変えて活動を始めたのです」
 以降、平田と実行委員会は五年後を目指して活動を開始する。中村との出会いが九五年春。オペラのあらすじの一般公募が同年秋。九六年春、下諏訪町在住の戯曲家神谷俊行君の「明日への希望」を優秀作に選出。九七年三月指揮者(星出豊)演出家(中村敬一)、他スタッフ決定。六月「オペラの楽しみ」講演会開催、七月主要キャストオーディション、九月合唱団募集、一一月二〇〇名の合唱団の合同練習開始−−−。
 この間一貫して平田が考えていたのは、アマチュアにプロの仕事を見せて、そのプロセスを体験させることだった。指揮者や演出家の選定はもちろんのこと、舞台技術のスタッフにも現在の舞台活動の最前線で活躍する人間を配した。昔の仲間を集めると、自然とそういうことになったという。中村には予め、市民合唱団は動きながら歌うのは難しいからコロス(古代ギリシャ劇の合唱隊を指す、輪になって踊るの意)にしてくれと頼んだ。舞台をグルリと囲む階段状のステージは、その意図の現れだ。稽古中も本番中も、合唱団員は舞台の三方からプロのソリストの姿を凝視することになる。脚本作りから舞台の準備、稽古から本番に至るまで、平田が作った構図の全ては、「プロの仕事をアマが取り囲み、一緒にプロセスを共有する」ものだった。その間、オペラ解説の講演会を入れている点を見ても、いい意味で平田はアマチュアを全く信用していないことがわかる。どんなに通を気取っても、アマはアマでしかない。けれど幕を開けたら、アマの甘えは通用しない。そのためにはオペラ創りの過程でプロの生き様を見せて、そこから何かを掴ませなければならない。
 九八年一月。長野五輪の開幕を目前にした雪の日。東京上野の文化会館に中村、平田を始めとして演出家、主要スタッフ、そして実行委員や合唱団のリーダー達約三〇名が顔を揃えた。日本のオペラの制作過程では極めて珍しい、作家から演出家・指揮者への作品の手渡し式だった。完成した脚本とスコアが中村から指揮者・演出家に手渡され、合唱団のメンバーを前にしてその製作意図が話された。 中村は言う。
「あれは嬉しかった。初めての経験でした。普通はあんなことやりません。そのために僕は沖縄から出かけて行くわけですし、スタッフたちだって忙しいんですから。でも僕が自分で台本を読みながらシーンを説明し、音楽がついた時にどうなるかを説明すると合唱団の人も頷いてくれました。会の後で演出家と二時間くらい飲みました。後は頼む、と。演出家としてもやりやすかったはずです」
 それは作家から現場への作品の引き継ぎ式でもあり、またプロからアマチュアへの主役の引き継ぎ式でもあった。
 実はこの時「仕事が忙しいから出席できない」という合唱団員がいたという。怒った平田はカッとして「そんなやつは来なくていい」と電話を切ったらしい。当日はその人の姿も会議室にあったというが、「プロもアマもやろうと集まったからには責任を果たさなければならない」という平田のポリシーが溢れ出るエピソードではある。
たとえアマチュア主導でも学芸会ではなく、自己満足を越えて地域を変えて行くオペラにしたい。そのために平田は考えられるあらゆる配慮をし、人材を集め、準備を進めた。総予算七〇〇〇万円のうち市の予算は五〇〇〇万円。残りは平田が地域を廻って協賛企業から集めて廻った。それもまた、本物を目指すために必要なプロの仕事だった。


 一一月二三日、午後三時半。本番千秋楽。第三幕、舞台袖。出番を待つ一一人の兵士が静かに楽屋からやって来た。鎧を着、手には槍、勇壮な姿だ。実は前日の初演の時には、二幕の後半になって着替え始めてから衣装が一着足りないことに気付いたという。稽古で全員揃ったことがなかったからだ。慌てて倉庫から一着探し出し、事無きを得たという。
 けれど二回目のこの日は全員落ち着いて、じっと舞台の展開に耳を澄ましている。続いて約一五〇名の妖精や村人、本物の木の葉を頭につけた風の精たちが静かに扉を開けてやってきた。低いドラムの音が会場全体を覆っている。
「四つの力が一つになった−−−−」
 このセリフを合図にクライマックス、激しい戦闘シーンが始まった。


 「伊那の方の合唱の様子はどうですか」「次は塩尻でオペラの企画があるそうじゃないですか」「私は軽井沢から来たんです」
 公演がハネ、ホールから打ち上げ会場に向かうバスの中は、化粧を落としたばかりで興奮覚めやらぬ合唱団員の交歓の場になった。合唱団員のうち岡谷市民は約六割。あとは近隣の街からやってきた人たちだ。中には岐阜からやって来た人もいる。文化に垣根があってはいけないという平田の考えがバスの中にもギュッと詰まっている。
 一方ホールではこの時、プロのスタッフとボランティアスタッフたちの手によって舞台のバラシが行われていた。演出スタッフには、あらすじ公募の優秀作を書いた神谷君と共に地元で劇団を主宰する山岡泰一郎君の姿もあった。稽古の初期段階では、演出家の意図を汲んで彼が指導に廻ったこともあった。「何で時間通りに稽古が進まないの」と、時には合唱団員から文句を言われたこともあったという。それでも山岡君は不平を漏らさず、プロの演出方法が学べるめったにないチャンスと、台本に細かく指示を書き込む日々だった。
「街が燃えるためには、余所者と若者と馬鹿者がいないと駄目なんです」
 中村がそう教えてくれたことがある。
 余所者とは、街を乱す者を指しているのではない。街に異質の価値観を持ち込み、街の持っている、しかし自分たちでは気づいていない文化的鉱脈や人材を逆照射する者の存在を言っている。若者は、徹底的に未来に生きている。肉体的にも精神的にもエネルギーに満ち満ちている。実現できようができまいが、様々な想像に身を浸し、それをバネにして飛躍する活力が在る。そして馬鹿者が、日常の世界に固まってしまった価値観を笑い飛ばす。その社会の常識を笑い、因習を笑い、徹底的に遊びまくる。この三者が集った時、街が活性化する。
 その意味で岡谷には、平田と中村という余所者が集った。実行委員会総入替えで若者の登場になった。神林君や山岡君のような若い人材も参加して来た。そこに合唱を愛してやまないアマとプロのオペラ馬鹿たちがやってきた。見事に三者が一体になったわけだ。
 さらに「御柱」という、地元の誰もが深く根差しているテーマを取り上げたことも大きかった。実行委員たちは中村の取材活動を通して自分たちもテーマを深めていった。さらに中村は、脚本を書きながら別のことにも気づいていったという。
「つまり御柱という祭自体が、実はアウトドアのオペラの要素に満ちているんです。祭を支える様々な役割分担も演劇的ですし、大勢の見物人や裏方の存在も合唱団や観客の存在に繋がります。この街には命懸けで演じる人々と、息をひそめてそれを見つめる人々があらかじめいた。だから、エネルギーの発露に迷いがないんですね」
 打ち上げパーティーで元気だったのは、合唱団に参加した婦人たちだった。輪になって嬌声をあげ、ソリストと写真を撮り、少女のようにはしゃいでいる。
一人の女性がこう語ってくれた。
「だって今まで御柱というと、男の祭でしたから。女は台所の炊事で我慢していたんです。ところが今回は、私たちが主役じゃないですか。今まで貯めていた分が爆発したんだと思います」
 彼女は、東京から嫁いできたという。何年か生活する中で御柱という風習には慣れたとは言うが、今でも東京弁と長野弁を意識して使い分ける時もあるという。
 そういう中で、オペラと出会った。思い切りお腹の底から声を出す体験が彼女たちにどんなに爽快なものだったか、想像に難くない。
 盛り上がる会場で、挨拶に立ったのは実行委員会会長の高木昭好さんだった。彼もまた、合唱団の一員として舞台に参加した一人だ。
「我々のレベルでは非常に難しい曲でした。何回も背筋が寒い思いをしましたが、二〇〇名の歌の仲間がよくぞここまでついてきてくれました。頼りになるメンバーです。自分で自分に拍手しましょう」
 この言葉に会場が沸いたのは言うまでもない。さらに続けて、
「御柱は七年に一回廻ってきます。その時は必ず歌いに来て下さい。いつまでもこのオペラを続けていきたいと思います」
 御柱がある年にもう一つの御柱オペラをやっていこう。それは九四年当初から実行委員会と平田たちが言い続けてきたことだった。そのために平田は市役所の中でも根回しし、将来の中堅幹部たちをこの渦に巻き込んできた。今回、最終的には一ヶ月一〇〇時間もの残業をこなしてきたホールの職員も若手が多く、七年後を睨んだ実践教育となった。
 もちろん問題がなかったわけではない。公演間近になってからも、実行委員とホールの事務局との間で軋轢が生じたこともあった。実行委員というアマチュアとプロのスタッフたちの間に立って、平田やホールの職員は難問を背負い込むことの連続だった。
「プロの仕事は即決でないといけないことがあります。あれこれ相談している時間がない。ところがアマチュアは民主主義が原則です。そのギャップが出て来るんです」
 今回の仕事を通して平田が意識し続けてきたのはアマとプロの区別であると同時にある種の融合だった。
 アマチュアは純粋だけれど最終的には自分が満足すればいいという傲慢さがある。頑張るという言葉の裏に、でも自分の仕事があるという意識が貼りついている。その代わり、アマチュアは終えることができる。打ち上げの席で「自分で自分に拍手」する自由さも持っている。
 彼らにプロの仕事と生き様を見せること。自分たちの姿を客観視させてアマチュアであることを再認識させること。もの創りのプロセスを共有させること。平田はそのことで、次の七年に繋がるエネルギーをこの地に残して行こうとしている。
 もちろん、プロに対してはさらに厳しい目も持っている。
「ゲネプロを見て演出打ち合わせが足りないと感じました。だから値段も値切る交渉をしようと思っています」
 全ての日程が終わって、ホールには、一冊のノートが残った。そこには「九五年六月二九日中村透氏来岡。旅費八四五四〇円、取材費五〇〇〇〇円」という記述に始まって、全ての活動の記録が残っている。やがてこのノートから、七年ごとのオペラ創りの一つのノウハウが生まれて来るに違いない。それもまた、舞台創りのプロがアマチュアに捧げる仕事の一つといっていい。
 何度目かのオペラが続いていけば、タクシーの運転手の言葉も変わってくるだろうか。「岡谷には二つの御柱がありましてね−−」 いつの日か、そんな言葉を聞いてみたいものだ。


 

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