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新潟ーーダンス・ダンス・ダンス

 今年六月、一通の手紙を受け取った。
 所は東京パークタワー。四月から新潟りゅーとぴあの芸術監督に就任した気鋭のコンテンポラリーダンスサー&振り付け師、金森穣率いるNoism04の公演でのことだ。
「SHIKAKU」と題されたその公演には、舞台も客席もない。ダンサーも観客も飲み込んだフラットな空間に「四角」いボードを組み合わせた衝立が縦横に並び、観客は「死角」の向こう側に思わず引き込まれる仕掛けになっている。その迷路の至る所で、金髪にもう一枚の皮膚のような薄衣を纏った男女一〇名のダンサーが、時に激しく、時に妖しく、時に静謐なダンスを繰り広げる。
 ダンサーは、観客の間をすり抜けて次の空間へと向かう。観客がその動きに気を取られていると、耳元で別のダンサーの息づかいが聞こえて来る。振り向くと、そこでもう一つのダンスが始まっている。
 ダンサーは、一見観客の存在を無視して踊り続けている様に見える。ところがすれ違いざま、ダンサーから私に、押しつける様に一枚の四つ折りの紙が握らされていた。
「この手紙は過去という、未来の過去に送られる。」「死を書く資格がないのなら、長い手紙を詩を書いて、君の視覚に送ります。視覚からもれた詩の奥に、始覚を求めた僕がいて、信じる資格があるのなら、君の死角に僕はいる。」
 抽象的なメッセージではあるけれど、その瞬間、ダンサーと私は確かに何かで繋がった。舞台と客席、演じる側と観る側という既成の垣根を越えて、共有する何かがあった。
 東京公演に先行した新潟公演の批評を、朝日新聞はこう伝えている。(六月一七日、乗越たかお)
−−−(金森は)この旗揚げ公演で安全策をとることなく、いくつもの挑戦にみちた舞台を創り出し「新しい時代を自分たちの手で拓のだ」という明確な意思を示した。
 批評家たちにとっても、その作品との出会いは興奮する事件だったことが伝わって来る。
「日本初」の冠がついたレジデンシャル(劇場専属)・ダンスカンパニーの旗揚げ公演は、それを「目撃」した観客達の中に重厚な感動を刻んで、見事に幕を閉じた。
 それにしても、新潟りゅーとぴあはどんなプロセスを経てこの才能を獲得したのか。公共ホールにおいて、ダンサー一〇名とマネージャーを含め計一二名を年間契約するという画期的なシステムはどうやって成立したのか。そして金森穣という才能は何を目指してどこに向かおうとしているのか。
 公演から約二カ月。すでにカンパニーは次の作品の製作の佳境に入っているとの情報を入手して、私たちは期待に胸を膨らませながら、新潟へと向かうことになった。
         


「東京公演をご覧いただけたんですか。ありがとうございます。あの公演のあと夏休みがあったんですが、それが開けてからもダンサーたちは皆「本当に辛かった、もう二度とやりたくない」と口を揃えて言ってます(笑)。僕自身もすごくプレッシャーがあったし、その中で僕はさらに彼らにプレッシャーをかけていきましたから」
 インタビューは夏の終わりの爽やかな風が吹くりゅーとぴあの屋上庭園で行われた。
 午前一〇時から始まった稽古が途中ブレイクする午後一時半。金森は稽古衣のままで現れた。公演の時は金色のベリーショートだった髪形も、だいぶ伸びた印象だ。その稽古は、関係者ですらスタジオに入るのが憚られるほどの高いテンションで行われている。けれどスタジオを一歩出た金森の表情からは、リラックスしつつ満ち足りた様子が見てとれる。充実した稽古が続いている証拠だろう。
「稽古は週一回の休みを除いて毎日九時過ぎからストレッチを始めて午前一〇時から夕方六時までです。終わって劇場を出たら解放されて美味しいものを食べてぐっすり寝る。ここではそういう生活の繰り返しです。イメージ通りというか、自分が一〇年間ヨーロッパでやってきたことをできるだけここで実現しようとしているだけです。でもさすがにダンサーは、これだけ朝から晩まで稽古していたら変わりましたね。公演を見に来てくれた関係者が、口をそろえて変わったと言っていましたから」
 言うまでもなく金森は、ヨーロッパでその才能を開花させた「帰国子女」だ。六歳からジャズダンサーの父親の指導でダンスを始め、牧阿佐美バレエ団に所属した後一七歳で単身渡欧。スイス・ローザンヌのモーリス・ベジャールが創立したダンス学校に日本人として初めて留学し、卒業後は二、三年ごとにオランダ(ネザーランド・シアターU)、フランス(国立リヨン・オペラ座)、スウェーデン(ヨーテボリ・バレエ)等のダンスカンパニーに所属してダンサー、振付師としての評価を高めた。
 約一〇年ぶりに帰国したのは一昨年の事。その理由は仕事が決まっていたからではなく、「一度は自分の国に戻ってみようという程度の気持ちだった」という。
 だが帰国後の活動を話す金森の口調は重くなる。日本で改めて実感したのは、日本のダンサーの精神的な甘さと肉体的な経験のなさだったという。
「自分がヨーロッパの恵まれた環境にいた時は、たまに日本に戻っては日本は駄目だなぁと思っていました。でも実際に自分が日本に行ってみないとわからないこともあるし、自分がダンサーとして日本の中で活動してみれば、それがどういう理由なのかもわかる。そう思って帰ってきてやっぱり感じたのは、露骨にダンサーが未熟だということじゃなくて、彼らを取りまく環境が悪過ぎるから彼らは成長できていないということでした。イコール自分自身もこのまま日本でフリーでやっていたら潰れるなと思いました。新潟に来る前はフリーで踊っていて、確かに仕事はいくつもいただきました。チャンスが来ることは嬉しいんですが、どれも必要とされているのは今の自分なんですよね。自分にとって今の自分は満足しているものではないし、未来の自分を創るためには時間と環境が必要です。でも目の前の仕事をこなしていると、時間がどんどん過ぎていく。それはとても危ないことだ、ヤバイなと思っていました。そんな時にたまたま新潟との出会いがあったんです。ここと出会わなかったら、もうヨーロッパに戻ろうと思っていたところでした」
 りゅーとぴあと金森の出会いは、〇三年五月に公演された創立五周年記念ミュージカル「家なき子」でのことだった。演出の栗田芳宏が金森と仕事をした経験があったことから、振り付けと主役レミの叔父ジェームス役を依頼した。その公演前の二月に、金森は自分の作品を発表し朝日舞台芸術賞とキリン・ダンスサポートをダブル受賞している。日本での認知度も高まり、評価もウナギのぼりにある時だった。
「この時ちょうど館も金森さんも、共に次のステップを模索しているタイミングで出会ったんです。だからとんとん拍子に話がすすんだという面もあると思います」
 りゅーとぴあの支配人、丸田滋彦が言う。
「コンテンポラリー部門は、広い意味の演劇の一分門だととらえていました。ところが会館してから六年間、ひとりよがりの事業をやってしまった印象でした。外部アドバイザーの方との契約も切れて、空席だったんです。さて次の展開をどうしようと考えている時に「家なき子」での金森さんとの遭遇がありました」
 公演前の約一カ月、金森は新潟に滞在しながら稽古に取り組んだ。その時の印象をこう語る。
「帰国してからも、新潟のことは知らなかったんです。でも来てみて建物も稽古環境も本当に素晴らしいことを知りました。建築物としても、設計家の長谷川いつこさんのデザインがすごく魅力的だし、実際に稽古するスタジオの広さだったり外の環境だったり、日本にもこういう劇場があるんだな、という驚きが在りました。例えば新国立劇場もちょっとヨーロッパのカンパニーのような感じはしましたが、建物の構造が殺風景だし病院みたいな印象です。ダンサーも稽古に通うのが大変だし。その点ここはすぐそこに劇場があってスタジオがあってヨーロッパだし、そもそもダンスカンパニーは首都から一定の距離があるローザンヌ、リヨン、ヨーテボリといった地方に在るものです。メンバーも自転車で五分一〇分という環境に住めるなんて、東京では絶対にありえないですから」
 そしてもう一つ。新潟と金森の幸せな出会いを仲立ちしたある事実もあげておきたい。
 それは、会館七年目にして見事に実を結びつつあるりゅーとぴあの製作能力であり、この地に魅了されたプロフェッショナルたちの存在だ。
 このインタビューにさきだって、八月一四日から一六日にかけて、りゅーとぴあでは演劇キッズコースの夏期公演が行われた。日頃りゅーとぴあで演劇を学ぶ約四〇名の子どもたちが出演し、演目はなんと「シンデレラ」と「赤毛のアン」の二つ。両公演を一日で行い、計六公演。いずれもキャパ八六八の小劇場が開演前には長蛇の列ができるほどの盛況だ。会館以来、りゅーとぴあの演劇部門はアドバイザーリー・プロデューサーに蜷川幸雄作品のプロデュース等で活躍する笹部博を迎え、「客席が常に満員になる演目招聘」「東京でもヒットする作品創り(自主事業)」を二大指針として活動してきた。市民ミュージカル作品も「家なき子」まで四作が創られている。特筆すべきは、その時々で招聘されたスタッフたちの新潟への熱い思いだ。演出家・栗田芳宏、作曲家・宮川彬良、笠松泰裕、作詞家・岡本おさみ等々、一流のアーティストたちがこの街に時に一カ月にも渡って滞在し、自転車で宿と館を往復しながら作品をつくり上げるのが恒例になっている。
 たとえ市民が相手でも、彼らの取組みには一分の隙も言い訳もない。稽古場で栗田が声を張り上げる。「その芝居は何だ。そんな芝居はプロが東京で一カ月で創っている程度の芝居だよ」。その声に役者が応える。「プロの役者さんに舐められたくないんです」。
 もはや「地方発」ではなく、演じ手都合の作品でもなく、いつどこで演じても満場を魅了できる製作姿勢がキッズ作品にまで徹底している。
 その館の能力と勢いを金森が感じなかったはずがない。だから「芸術監督に」という丸田の申し入れに対して、金森は即座にこんな条件を出している。
−−−一〇名程度のダンサーともレジデンス契約をしてください。タイトルだけの芸術監督ならお断りします。
 日本では極めて異例であることを知ったうえで、金森はそう言った。だがその申し入れは、丸田には意外でも何でもなかったという。むしろそこまでのことができなかったら、館として将来に描く作品の世界発信には繋がらない。十年後二十年後に市民が誇れる文化の館であるためには、当然のことだ。新しい活動の場を模索していた金森と、切り札となる人材を模索していたりゅーとぴあ。両者が手を握るには絶好のタイミングだったのだ。
 けれど行政マンとしての丸田には、悩みがなかったといえば嘘になる。
「就任の承諾をいただいた後、その年の秋でしたか。一度金森さんに謝りに行ったことがあります。ダンサーの公募の発表を少し待って欲しいと。約束した時期までに、議会や行政内の根回しができなかったんです」
 丸田が苦笑する。市からりゅーとぴあへの事業費の助成金は年間約三億円。それにチケット収入をあわせた六億円が館の予算だ。けれどその予算を使ってアーティストを月給制で雇うことは可能なのか。一二名の年間経費は約四〇〇〇万円。それに製作費をプラスした五〇〇〇万円程度をコンテンポラリー部門で使う為の根回しに、若干の時間がかかったのだ。丸田はこう重ねる。
「確かに金森さんにしても私にしても、この契約は大冒険だと思います。でも世界への発信事業まで考えた時、コンテンポラリーダンスは強力な武器です。言葉の障害がなく、身体表現と光や音楽、舞台美術ですから。日本ではまだどこも目を着けていない分野だから、新潟でやる意味もありますし」
 こうして出会ってから一年弱で、日本で初めての若き芸術監督とレジデンシャル・ダンスカンパニーの誕生となった。
        


「りゅーとぴあの話を最初に聞いた時には、あぁ日本にもやっとダンスカンパニーができたんだという思いと、何で今までなかったんだろうという疑問の二つが浮かびました。私は一六歳からヨーロッパのカンパニーで踊っていたので、向こうのスタイルも環境もわかっています。新潟は何故かヨーロッパに似ていて、最初からとても好きです。早く世界ツアーをやるようなカンパニーになって、新潟にから世界へと繋がる路ができるといいと思います」(ダンサー、井関佐和子)
「金森さんとであったのは〇二年のことでした。いやーすんごい衝撃的でした。こんな日本人がいたんだぁという感じですね。その動きがずっと僕の身体の中に残っていて、ああいうふうに動けたらいいなとずっと思っていました。ダンスを始めたのは大学二年の時です。すごくのめり込んですぐにニューヨークにいって色々なスタジオで踊ったりしていました。でも初めて金森さんのワークショップを受けた後は筋肉痛が酷くて、バイトしていたラーメン屋で水を張った寸胴を持つのにいちいち腰を降ろさなければならないほどでした」(ダンサー、島路保武)
 ダンサーたちの経歴は、留学組あり、ヒップホップ系あり、ミュージシャンのバックダンサーあり、ジャズダンスありと様々だ。全国約二〇〇人の応募の中から厳選され、一年契約で新潟に居を構えている。
 十月末の二回目公演に向けて稽古が進むスタジオには、一一人のダンサー(一人はアンダースタディ)と金森のみ。地灯と音楽と一本のゴム紐だけの空間で、すでに相当なレベルまで作品は完成している印象だ。
 製作の状況を、金森はこう語る。
「東京の環境よりもここでは時間も場所も遥かにあるんですから、僕らは登ろうと決めた山の頂上に着いた頃に公演をするんじゃなくて、公演前に一度登り切ってた上でその山を一度降りようと思っています。その上で本当にその山が自分たちが登るべき山なのかを確認して、違ったらまた別の山を探すという作業をしたいんです。単に踊れるだけの状態は、もう先月に通り過ぎています」
 次回公演「black ice」の企画書に、金森はこう書いている。
「プロフェッショナル・ダンサー=key
(日本では)作品を創る事に重点をおき、商業的に成功する事に重点をおき、ものは創られ消費されていく。そしてダンスは趣味の延長で、決して職業ではない。職業として成り立つ時に捧げられる時間と情熱を僕は知っている。日本のダンス界に必要なのは、場所(劇場)でもドア(作品)でもない。キー(プロダンサー)である」(一部筆者略)
 この作品は、新潟で創られ、山口、宮崎、高知、松本、可児へと巡回公演される。そのことにも、金森の挑戦の目は向けられる。企画書にはこんな意味の言葉も綴られている。
−−−最初からどんな場所でも上演できるものを創るのではなく、状況や場所によって形を変えられる生きた装置をつくることによって、劇場によってこちらが形を変えてフィットしたい。当然振り付けもダンサーもフレキシブルでありたい。
 そのために、金森は最低でも公演の三日前から劇場に入り、そこでの創造作業を突き詰めたいという。通常の公演ではおよそ不可能な構想だが、公共ホールのネットワーク事業という利点を生かして、「劇場を変える度に生まれ変わる虚構」を創りたいと考えている。「本当に自分でも贅沢な企画、実験だと思っています。普通はできないでしょうね(笑)。でも、その場所でしか生まれないものを突き詰めてみたいんです。そのためには時間が必要だし、逆に時間があるからこそ各地方でしかありえない「black ice」になると信じています」
 その言葉を聞きながら、私はあの手紙の事を思い出していた。ダンサーから観客に手渡された一通の手紙。そこに書かれていたのは日本のダンス界を変えようという未来図であり、金森が持つ強靱な意思だったのだ。そのためにはキー(演じ手)の変革だけではなく、観客やホール、自治体をも含めた意識・環境改革が必要となる。既成の劇場の垣根を取り払い、行政の習慣も乗り越え、今また新しい制作スタイルも模索する。
 その視線の先には、欧米公演の実現など、むしろ当たり前のものとして映っている。


 

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