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広島ーーダンス・ダンス・ダンス

 がらんとしたホールの広い客席に、突然ラジオのニュース音声が流れ出す。「大阪の株式市況をお知らせします。第一部の終わり値は−−−」。コンテンポラリー・ダンサー、伊藤キムが舞台でよく使う音源だ。
 広島市安芸区民文化ホールの舞台上には、そのキムを中心に二〇人弱の若者たちが思い思いの出で立ちで集まっている。アポロキャップを被りダボダボのスェットパンツを履いたストリート系の少年もいれば、クラシックバレエのレオタードの上にTシャツを着た女性もいる。あるいは全く普通のトレーナー姿の女子大生もいる。パンフレットには「伊藤キムコンテンポラリーダンスワークショップ」と銘打たれているが、参加者の姿を見れば、そのバックグラウンドの多彩さが伺える。
「今日は作品の流れを説明しましょう。客入れの時は舞台では田中さんが一人で寝ています。その後ソロがあって、料理をする人が入ってきて、最初の七人がはけたらそれ以外の人が袖から駆け込んできて−−−」
 キムが説明をはじめる。この日は稽古開始七コマ目。八月二七日から九月五日まで続く今回の企画は、大きく二つのコースに別れている。その日ごとに受け付ける一回限りの基礎コース(Aコース、五回)と、九日間計十二コマの長期に渡るBコース(通常一コマ二時間半、四時間半一回、四時間二回、三時間一回)。Bコースのワークショップの最終日には、観客も入れた二時間のデモンストレーション公演が待っている。
「踊りの経験者がいるにしても、この場で初めてキムさんと向き合う素人の人たちとこれだけの時間で舞台作品を作ることの大変さと危険さはわかっているつもりです」
 ワークショップの様子を観客席から見つめながら、島村陽子が言う。この企画が誕生した三年前からホールの委託を受け、プロデューサーを務めている女性だ。
「最初の企画ではここまで本格的な公演ではなかったんです。でも一年目の川野真子さんのワークショップの時から熱が入っちゃって、翌年のコンドルズの近藤良平さんもキムさんも、前の年のビデオを観るから余計に拍車がかかっちゃうんです」
 そう言って苦笑する。
−−−何故か最近、広島のダンスムーブメントが熱いらしいよ。
 誰とはなくダンスファンや関係者の中で囁かれ始めた現象は、きっとこんな事実の積み重ねの中から生まれてきたものなのだろう。
 そういえば、七月に東京で行われたトヨタ・コレオグラフィー・アワードに参加していた「身体表現サークル」も広島出身だった。昨年の近藤のワークショップへの参加を契機にダンス界にデビューしたものだと言う。筋肉質の男性二人が赤フンドシ姿で互いを叩き合い、走り回り、白い肌を真っ赤に腫らしていく。主宰する常楽泰は「元々は宴会芸」と言って憚らない。その作品は、審査員をして「そもそもコレオグラフィーとは何か?」と、その足元を揺する面白い存在になっていた。
 このアワードで、身体表現サークルはオーディエンス賞を受賞した。海外から来た審査員も彼らの受賞に素直に喜んでいる。コンテンポラリーダンスの可能性と幅の広さを、ここでも見る思いがしたものだ。
 実は島村こそ、常楽たちの活動を後押しする存在だという。広島市立大学で美術を学ぶ常楽たちを近藤のワークショップに誘い、NPO法人JCDN主宰の全国ダンス巡回プロジェクト「踊りに行くぜ!」に参加させ、その作品づくりを支えてきた。島村は、常楽の言葉を借りれば「ダンスのことなら何でも相談できるおばちゃん」であり、広島の若者たちに刺激を与え続ける存在なのだという。
 元々個人的にダンス関連のワークショップや自主公演を行っていた島村と安芸区民文化センターが出会ったのは約四年前の館の誕生直後のこと。そこから俄に広島のダンスが熱くなった。舞台上だけでなく、この日ホールのロビーで作業していた「踊りに行くぜ!」の実行委員たちの活動も活発だ。いったいどんな好循環がそこにあったのか。興味は募る。
        


 始まりは一通の年賀状だったと島村は記憶している。今から四年前、安芸区民文化センターで企画を担当する山本真治からの年賀状にはこう書かれていた。
−−−今度ダンスをやりたいです。
 当時の状況を山本が語る。
「ここは二〇〇一年にできた市内八番目の新しいホールです。だから自主事業にしても他にはないものをやりたいと考えました。確かにコンテンポラリーダンスという言葉も概念も当時の広島には希薄でしたが、ダンスは三〇代四〇代のパワフルな女性を取り込める自己表現だし、コンテンポラリーは師弟関係と無縁ですからやりやすいなと思ったんです」 ところがこの呼び掛けにも、島村は半信半疑だったという。
「だってそれまで区のホールに稽古場使用を申し込んでも、いつも「オペラが優先です」と言って断られていたんです。その度に私たちは泣いていました。いったい行政はどこまで本気なのか、本当にコンテンポラリーを理解しているのか、手さぐり状態でした」
 島村は広島に生まれ、少女時代にモダンダンスを習い、その後テレビ局に就職しある時期までは教育ママだったという。夫の転勤で東京に住んでいた三〇代の半ば、子育てが一段落した時に再びダンスに向かい合った。
−−−不思議に身体が動く!
 その驚きが身体の奥底で眠っていたダンスの情熱に火をつけ、やがて広島に帰郷した十二年前からダンスの企画集団フリーハートを主宰することになる。
「東京や大阪で素敵な公演を観るじゃないですか。その度に終演後広島に向かう新幹線の中で「悔しい!」って思うんです。何でこんな素晴らしいものが広島に来ないんだろう。何で本物を観せて上げられないんだろうって。
自分でいいものを観ただけでは納得できない性分なんです」
 その性分から、様々な自主企画を立ち上げることになるのは時間の問題だった。市内のダンス教室の先生を集めた自主公演、東京からアーティストを招いての短期ワークショップ、ニューヨークのダンスカンパニーの招聘公演等々。だがいつも壁になるのは、まず練習場の確保だった。
「当時行政内部では、まだダンスは特別なものという認識でした。区民ホールは市民オペラに力を入れていましたから、最適な練習場もオペラ優先なんです。ダンスのレッスンには広さ、床の材質、鏡とかの条件があります。区民ホールの最適な場所がが借りられないから高価な民間の練習場を借りなければならず、結局赤字は自分たちで背負っていました」
 島村たちにとって、行政はけっして相性のいい相手ではなかったのだ。
 けれど山本は、ホールの担当者として島村たちの取組みをじっと見ていた。約一〇年間、まだコンテンポラリーという言葉がインターネット検索でもあまりヒットしない頃から、その情熱に触れてきた。だからこそ、安芸区民ホール誕生時に、「コンテンポラリーダンスを参加型自主事業に」という動きになった。
 結果的に島村たち市民の情熱が、区民ホールを運営する広島市文化財団の背中を押したことになる。
 年賀状から数カ月後。具体的な動きが始まる時に、島村はそれまでのウップンを晴らすかの様に思い切った企画書を書いた。
「長期間レジデンス形式のワークショップ」。
 いままで民間の力ではできなかった企画を、行政と共にやってみたいと思ったのだ。
「行政と組めるなら、それまでできなかった大きな企画を一流のアーティストに提案できると思いました。いままで広島に呼びたくてもまだ土壌が育っていないからと寝かせていたアーティストもいたんです。コンドルズもそうです。そういう人に声をかけるチャンスだ。広島に刺激を与える絶好のチャンスだと思いました」
 とはいえ島村は、この企画の全権プロデューサーではない。企画の一部をホールから委託され、ホールスタッフと共につくり上げるスタンスは崩していない。一年目の川野真子のときは手さぐりで奮闘した。二年目の近藤良平の時は若者を集めて良平実行隊を組織した。三年目のキムのワークショップはホール担当の猫本浩司や「踊りに行くぜ!」の実行委員と共に活動している。
 多彩な仲間の存在も、十二年に及ぶ活動が熟した証拠だ。
        


「私は市内で子どもたちにバレエを教えたりしています。安佐北区民文化センター主宰の市民オペラの振り付けもやっています。今回はキムさんのヌケヌケ感というか、コンテンポラリーの身体を解放する感覚が味わいたくて参加しました」
(Aコース、志賀○○さん)
「大学時代フォークダンスサークルに所属して身体を動かしていました。厳しいレッスンの中で時折、自分の身体が自分のものではなくなる様な不思議な感覚になる瞬間が在りました。それがとても好きで、その感覚を掴む手段をキムさんは教えているんじゃないかと思って参加しました」
(Aコース、田村○○さん)
「去年近藤さんのワークショップに参加して、私みたいな踊れない人でも踊っていい場所があるんだって驚きました。それまで演劇をやっていて、コンテンポラリーダンスって全く知らなかったものですから。近藤さんもキムさんも、その人のセンス、何をポイントに作品を生み出していくのかが体験できて、今はコンテンポラリーダンスにどんどん惹かれています」(Bコース、中島由美子さん)
 参加者は、多彩な動機と経歴、そして当然ではあるが独自の肉体を持って集まっている。キムのワークショップは、踊るというよりもその肉体と向き合い、内面から湧き出るものを素直に表現しようとする。そもそもキムは舞踏の出身だから、「できるできない」という答えを求めるワークショップではない。いかに自分の身体を解放できるか、だ。そう簡単に会得できるものではない。
「約一〇日間で作品を作るとか身体と向き合うというのは誰が考えても無謀ですよ」
 キムも言う。
「僕自身、気になるところにも目をつむっていかないと作品にはならないと思っています。むしろ参加者には伊藤キムという嵐にひっかきまわされる体験をしてほしいんです。本当に身体をみつめるのはその後の作業ですね」
 とはいえ、参加者の中にある種の原石の光を見つけると、キムの視線に光が宿る。A、Bコースあわせて四時間半に及ぶレッスンの合間にも急きょ個人レッスンを行い、次第にその指導にも熱が帯びて来る。
 冷静にダンスの状況を見れば、他のジャンルに比べてまだまだマイナーなのも事実だ。ホールでダンス公演を企画すると、座席に配布するチラシが全国から寄せられるという。それだけダンス公演が少ないからだ。
 けれど人はひとたび身体を動かす喜びを知ると、そこから抜けられなくなる。例えば昨年のホールの担当者は、今では「踊りに行くぜ!」の実行委員となり、自らハンドルを握って一〇時間かけて東京にも出かけるほどのダンスフリークになったという。
 少なくともここ広島では、新幹線の中で「悔しい」と呟いていた女性が十年かけて新しい境地を地域に根付かせた。今島村は、目の前で展開されているワークショップを見ながらこう呟いている。
「なんて贅沢な時をもっているんだろう」
 それがムーブメントではなく本当の意味のダンスへの情熱になるように。少しずつではあるが着実に、ダンスの根がこの地に広がろうとしている。


 

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