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松本ーー市民芸術館誕生!

「皆さん、信州人はいろいろ難しいんです。私もいろいろ苦労してきました。でも、突き詰めれば本質を理解してくれる人たちです。頑張って行きましょう」
 新装なったまつもと市民芸術館のオープニング・パーティーの席上、一風変わった挨拶をして会場の苦笑を誘ったのはマオカラーのスーツを着た指揮者・小沢征爾だった。
 八月二九日日曜日。パーティーは、小劇場で行われた館の館長兼芸術監督、串田和美演出主演の「スカパン」と、大ホールで行われた小沢指揮のオペラ「ヴォツェック」の終演を待って屋上庭園で行われた。会場からは、東を望むと美ヶ原の稜線を雨上がりの雲が駆け登っていくのが見える。もちろん西には、やや霞んでいるとはいえ北アルプスの猛々しい稜線が続く。館の誕生は、日本を代表する名山に囲まれた人口二〇万人の中核都市・松本が、文化都市として新たなスタートを切るに相応しいイヴェントだった。会場には高円宮妃殿下を始め、この日の舞台美術を手がけた建築家・安藤忠雄、塩川○○元衆議院議員、デザイナー森花恵らも顔を揃えていた。
 けれどその華やかさとは対照的に、小沢の挨拶に象徴されるように、オープニングとはいえこの館がまだまだ複雑な事情を抱えていることを、多くの出席者、そして市民が知っている。
−−−はたしてあんな大規模の館を松本が維持できるのか。行政はオペラのできる市民会館と言っているが、本当は前市長が小沢さんと密約したオペラハウスじゃないか。
 過去五年間に渡って、猛烈な館建設への反対運動が市長選挙も巻き込みながら展開されていた。三年前には住民投票条例制定への書名は六万人を越えた。館を計画した市長は、ついに〇四年三月に行われた市長選挙でよもやの四選を阻まれた。
 この日、駅前から乗ったタクシーでも、運転手はこう言ったものだ。
「あぁ芸術館ね。今日からオープンかい。あんなもん、一四五億もかけて作ってどうするだね?」
 そこで何が行われようとしているのかは知らないが、市民の間に、「総建築費一四五億円」という数字だけが一人歩きしている。
 その黒雲が、串田を芸術監督に迎え、キャパ○○○人の主ホールと○○人の小劇場、そしてガラス越しに屋上庭園が望める大きな稽古場を持ったホールの頭上を覆っている。
         


「この日をスタートに、芸術館のあり方を考えよう」
 そうタイトルされた住民たちの集まりが館の二階に広がるシアター・パークで行われたのは、オープン前の六月五日のことだった。すでに建物は三月に完成し、それまでにもいくつかのプレイヴェントも行われていた。五月のゴールデン・ウイークに舞台を含めた全館を開放してみると、二万七〇〇〇人もの見学者がまるで初詣の様に押しかけた。それだけを見ても、賛成反対はともかく、市民の館に対する関心の高さがわかる。
 館建築への反対を訴えていた住民と、〇三年三月に芸術監督に就任した串田とが会いまみえるのはこの日が初めての事だった。いや多くの反対者にとって、この館に入るのも初めてであり、串田和美なる人物を見るのも初めてだったはずだ。
 串田は、館発行のPR誌「幕があがる。」の中で、「まつもと市民芸術館の進むべき道」と題してこう記している。
「これだけ大きな施設の幕を開けるには、(開館)一年前の就任というのはあまりに遅過ぎたように思います。この施設建設には多くの人の期待と同時に、複雑な感情が絡んでいることを少しずつ知りました。けれどもそれは決して不幸なことではなく、むしろ多くの市民が積極的に関心をもっていることであり、本当はそのパワーが、市民芸術館を支えていく源になるはずです」
 とはいえ、実際はそんな奇麗事では進まなかったようだ。串田が当時をこう振り返る。
「対話集会もそうだったけれど、一番大変だったのは市議会に呼ばれて議員と怒鳴り合ったことかな」
 インタビューはオープニングの翌日に行われた。前日の「スカパン」は大入り満員、カーテンコールが七回も繰り返されるほどの大反響だったから、串田も微笑みながらのインタビューだった。けれど温厚な串田が「怒鳴った」というのは穏やかではない。議員からの最初の質問が「トイレの数は足りているのか」と言うものだったから、串田にはたまらなかったのだという。
「僕が呼ばれてきたのがオープン一年前と知りながらそういう質問が出る。もっと本質的なことを聞いてくれるならいいのに。僕がもし設計段階から参加したなら仕方ないけれど、途中からの参加だったんだから、これからどうするのかをお互いに考えて行かなくちゃ」
 住民との対話集会の日も、冒頭で串田は住民たちにこんな主旨の挨拶をした。
−−−館長兼芸術監督を依頼されたのは〇二年の暮れ。引き受けたのは〇三年三月。この時にはすでに建設は七、八割進んでいたので、反対する皆さんと向き合う機会がなかなかとれなかった。何故行政と市民がこれまで向き合って来なかったかは不思議だけれど、今回は元「新市民会館建設に関する住民投票の会」代表の西村忠彦さんの尽力もあってやっと皆さんとお目にかかることができた、と。
 串田が言う。
「あの会は、私から西村さんにお願いして開いたんです。最初に西村さんに会った時に僕も思い切って政治活動に利用されていませんか、反対の為の反対になっていませんかなどと話しました。その上で、じゃあ反対派の人も呼んで討論しましょうよと言ったんです。彼が呼びかけて来れないと反対派の人はきてくれませんから」
 集会は、串田の横に座った西村が、住民投票条例を望む活動の原点である「見上げてみよう 深志公園の空を」という詩を朗読して幕が開いた。一回目の集会は約六〇名、一週間後の一二日に行われた二回目は約一〇〇名。殊に二回目には約二〇名もの積極的な意見が出された。もちろん途中では、強固な反対意見も続出したが、様々な意見が出る中で参加者は「何かが溶け出した」と実感したという。
 やはりオープニングの翌日、西村の仕事場である幼稚園を訪ねると、こんなことを語ってくれた。
「串田さんが芸術監督に来られてから、情報公開と言う点では大きく変わったと思います。串田さんと初めて会った時、彼はいいました。市民の方としっかり話し合わないと幕はあがらない、と。それは私たちと共通する思いだと感じました。そもそも私は市民会館の改築には賛成だったんです。ところが私たち市民の知らない所でいつのまにか一四五億円もの巨費を使ってオペラハウスになると決まっていました。住民の知らない所で物事を決める前市長の市政の象徴だから、私たちは断固反対したんです」
 同じ意味の事を、館の運営に携わる文化振興課長、中沢孝も言う。
「不思議なことに、〇二年にやはり一〇五億円のコストをかけて建設された美術館には何の反対運動もありませんでした。ところが芸術館の場合、前の市民会館が貸し館で維持コストがあまりかからなかったのに、今回は建設費だけでなく維持管理費も莫大にかかるということもあって、前市長の一二年に渡る長期政権への反対のシンボルになってしまったという面もあると思います」
 どっぷり泥沼ですよと中沢は苦笑交じりに語ったが、救いなのは、串田がこの状況にあっても軽いフットワークを崩していない点だ。
「僕は舞台の上の作品づくりだけが演劇とは思っていないからね。自由劇場の頃から劇場であり観客でありそこに至るプロセス全体が演劇運動だと思っていたから。議会に出たりめんどくさい人と酒を飲んだりするのも、演劇活動の延長だと今は思っているから」
 松本を拠点に活動を始めてからも、串田はホテル住まいを続けている。新居を紹介してくれる人も居るが、その方がいいという。
「だって松本の人はすぐに蟻ヶ先の人とか深志の人とか、住んでいる場所で色分けしたがるんだ。そういう色がつかないように、ね」
 この大胆さと緻密さこそが演劇人・串田ならではの感性だ。捩じれた松本の状況を切り開く、大きな切り札になっている。
        


 それにしても、市民たちの中で館への別の角度からの議論は起こらないのだろうか。
 低迷する経済。なかなか新しい展望の開けない観光資源。いつまでも北アルプスとお城にすがって生きて行けるのか。新しい松本の顔は何か。そういうことを考えれば、世界に向けた文化コンテンツを生み出す可能性を秘めた館の誕生を歓迎する人がいてもおかしくない。この街には一〇年続くサイトウキネン・フェスティバルと、それを支える市民ボランティア活動の伝統もある。街の未来を考えたらコスト議論だけでなく、街づくりの問題として館の誕生が語られてもいいはずだ。
 そう思いながらこけら落とし公演を見ていると、揃いの黒いTシャツ姿で甲斐甲斐しく会場整理や受付け業務を行うボランティアの人たちがいた。その中に、かつて松本演劇祭を主宰していた西堀恒司の姿もあった。
 市内で新聞販売所を経営する西堀たちは、どのような思いでボランティアに参加しているのか。そう尋ねると、「その話はパーティーが終わってからゆっくりしませんか」ということになった。「ここで待っていますから」と西堀が示したのは、館も会場となる「第九回松本演劇祭」のチラシに書かれたピカデリーホールという劇場だった。
「五年前に私が買い取った劇場なんです」
「!!」西堀の言葉の意味がよく理解できずにとりあえずそこに行ってみると、思わず「あっ」と声が漏れそうになった。
 その名から古い映画館であろうことは想像していたが、スクリーンの前の座席を潰して広い舞台ができている。照明を吊る為の天井のバトンも綱元も本格的だ。客席の左右にはピンスポット用の台座もある。客席は二七〇。かつて一世を風靡した映画館だけに、特別席に行くとペアシートも昔のままに健在だった。
 その劇場を一通り案内してくれた後、西堀は語り始めた。
「反対運動があれだけ盛り上がっている時点で賛成なんて言うと政治闘争に巻き込まれかねなかったからね。それに僕らから見ても、前市長は今なら国の助成金を貰えるといって建設を焦ったでしょう。でも、僕たちが演劇祭を始めた一五年前から、細々と今日まで祭が続いている事がこの町のソフトとしては大きいんじゃないかなぁ。地元のアマチュア劇団は演劇祭から相当育ってきているからね」
 演劇祭の実行委員長を務める西堀は、アマチュア劇団の発表の場を確保する為にこの映画館を買い取ったという。以降、地元の劇団員たちが総出で壁を塗り替え、照明は廃止になった公民館から譲り受け、装置を吊り客席の模様替えも行って「自分たちの劇場」にしてきた。西堀は、公演をうつ劇団には一日約五万円で貸し出している。しかも稽古日は只。一週間ドアの鍵も預けっぱなしというから、劇団員たちは劇場に寝泊まりしながら芝居を創り演じることができる。
−−−ここにももう一つの市民芸術館があるじゃないか!
 その劇場を見ながら思った。こんな素晴らしい小屋のある街があるだろうか。すでに串田もここにやってきて、何本かの芝居を観ていると言う。おそらくアマチュア劇団のレベルを問えば、必ずしもレベルが高いわけではないだろう。けれど東京の劇団が稽古場探しに四苦八苦していることを考えれば、こんなに贅沢な稽古・公演環境はない。
「東京の演劇状況はおかしい」
 串田も常々口にしている。
「何故キャストと演目しか決まっていないのにチケットが完売になるのか。もっとゆっくり時間をかけて、集団でものごとを考えていくことはできないのか」
 その点から考えると、地方都市に誕生したこの劇場は串田にも一つの理想であるはずだ。
 もちろん串田もすでに、館の稽古場を使って二つの滞在型ワークショップを開いている。
 一つは二年前の夏から北海道の富良野、札幌、朝日町を会場に行ってきた「シアターキャンプ」。今年は渡辺美佐子や銀粉蝶といったプロの役者も参加して、北海道を皮切りに、松本では一〇日間に渡ってワークショップが展開された。
 もう一つは地元のアマチュア劇団員や高校・大学の演劇部員を集めて行われた「アクターズ・トレーニングスクール」。こちらは四月一七日から全一四回に渡ってストレッチ、身体の力を抜く方法、呼吸法等の講座が行われた。どちらも「公演を前提とした演劇しかない東京の状況」へのアンチテーゼの意味が込められていたといっていい。
 その姿勢を知っていただけに、西堀たちが創った手作りの劇場であり稽古場が、余計に輝いて見えたのだ。
 そこからは酒になった。近所の酒場に繰り出すと、西堀たちも饒舌になった。
「館のボランティアも、もっと集めないと駄目だね。あのTシャツを着る事にスタイテスを感じるようにしないと。ルールやモラルの問題もあるし、何よりもマンネリ化しないように運営しないとね」
 途中から合流した市会議員、増田博司が言う。聞けば増田も西堀も同じ町内で育った仲間で、一緒にJC時代に演劇祭を立ち上げ、増田は長年にわたってサイトウキネン・フェスのボランティアもしているという。
−−−サイトウキネンのボランティアの人たちは館に協力的なのですか?
 そう尋ねると、二人が声をあわせた。
「そりゃそうせい。今日もオペラの方はサイトウキネンのボランティアが全部仕切っていたし、何よりあの組織のリーダーの青山は昔からの俺たちの仲間なんだから。同じ穴のムジナだもんで、おい、頼むでといえば何でもやってくれるさ」
 地価水脈。その言葉を聞きながら、この街の地中深くに流れる太い水脈、人脈を感じた。
 表面上は現実社会の様々な思惑や立場の違いがあったとしても、地方都市ならではの財産はこれだ。人口二〇万人規模の都市ならではの「共通の記憶」が市民の中に確かにある。
 演劇活動にしても、いくら中央から串田がやってきたとはいっても、西堀たちの様な活動がなかったら市民に受け入れられるとは思えない。串田もまた直感的にそのことを察し、インタビューではこんなことも言っていた。「あと何年かして芸術監督を辞めたら今度はピカデリーの監督になろうかな、なんてね」 冗談まじりに語られた言葉ではあるけれど、「芝居は橋の下なら橋の下でどうやるかが本質」と語る串田は、ピカデリー劇場の存在を本気で面白がっている。
 そういう男を芸術監督に迎え、しかもそこに地価水脈が脈々と流れている事。それはこの街の幸運と言っていい。
 と、その店に、途中で串田も顔を見せた。酒は控えているとは言うものの、役者たちが世話になっている酒場だから一度挨拶しておきたかったと笑顔を見せる。どこに行けば誰に会えるとわかる街。串田もそんな松本を楽しんでいる風情だ。
         


「私は教育とは木を見て森も見る作業だと思っています」
 もう一つ記しておきたいことがある。
 西村の幼稚園を訪ねた時、私は最後にこう尋ねた。
−−−「幕があがる。」の中の署名記事の最後に、肩書として幼稚園名を書かれたのも西村さんの意志だったのでしょうか。
 西村は、対話集会の報告を載せた同誌に「「いたみ」が生きる時」という短文を寄せている。その末尾には「鈴蘭幼稚園園長」と記されていた。児童福祉に関わる仕事を公表するのは、不都合はないのだろうか。
 その答えが「木も森も」の言葉だった。
「鈴蘭の名前も堂々と出して、私は園のことだけでなく行政も街の未来も考えているという態度を示したかったんです」
 西村たちは、住民投票条例が否決されるとすぐさま市長選への対応を考えた。擁立したのは元信州大学医学部助教授で、チェルノブイリの原発事故のあと五年半に渡って現地で救済活動を行った菅谷昭だった。菅谷が立候補を承諾したのは投票日の二カ月前。苦戦は必死だったが、それでも軌跡の逆転勝利に結びつけた。ところが同じ三月。西村には新しい苦悩が待っていた。
「築四〇年になるこの幼稚園は老朽危険園舎と認定され、建て替えなければならない状況でした。今までなら総工費一億二〇〇〇万円のうち国が二〇〇〇万円出してくれ、それを条件に市が三〇〇〇万円補助してくれたんです。ところがその申請をしたら、国が財政悪化の為補助できませんと言ってきた。慌てて市に掛け合っても、国のサポートがないと市も助成できませんと言う。こういう零細な福祉現場にそういう皺寄せが来ているんです。なのに、四三億円もの助成金が取れるからと言って一四三億円もの建物が必要でしょうか。国全体の財政が危機なのに、とれるものはとっちゃえというのは余りに無責任です」
 西村が語る一つ一つの事実が痛切に響く。
 とはいえ西村は、オープン翌日のこの日、串田にむけて電話でこんなメッセージを伝えたのも事実だ。
「昨日のスカパンは最高でした。松本の劇場で若い子たちがあんなにたくさん大喝采していて感激しました。モリエールは昔から見ていますが、昨日はまさに串田演劇でした」
 こけら落とし公演を、西村も観にきていたのだ。その後のオープニング・パーティーへの出席はさすがに気が進まなかったというが、是は是、否は否の姿勢は変わらないまでも、長い反対運動の末に串田と出会い、対話集会を経てその心情にも変化が見える。
 インタビューの途中、西村は串田に対して「昵懇」と「敬意」と言う言葉を使った。そして最後には「男と男の信頼」とも言った。
 長い間行政は、市民の指摘に対して「オペラもできる市民会館」と言ってきた。けれど串田は「これはどこから観てもオペラハウス」と言い切った。その上で、今何をするべきで何ができるのかを話し合いましょうと精一杯の情報公開を行った。
 そのことに西村は「信頼」を感じている。「とはいえ私たちはこれからも注意深く観察して行きますよ。年間維持費が六億円と言うけれど、三年目辺りから苦しくなるのではないでしょうか。未来永劫それだけのお金を使うなら、市民がきちんと観察しなければ」
 もちろんそれは串田や館のスタッフたちも望む所のはずだ。逆風からのスタートで運営費は少ない。けれどその中で、串田は小沢と相談して演劇とオペラの融合も考えているし、演劇祭の優秀劇団には翌年春の小劇場公演をプレゼントするともいう。様々な工夫で、この窮状をチャンスにしようと必死なのだ。
 振り返れば、串田たちが「自由劇場」をオープンして六本木の街からアングラブームを起こしたのが一九六六年。企業文化と地域文化の融合のシンボルとして渋谷に誕生したシアター・コクーンの運営に携わったのが八〇年代後半。そして今二一世紀、「地域からの創造」の旗を掲げて串田が新しい舞台に立つ。
 もっと水脈を広げる事。この地の鉱脈をもっともっと掘り進める事。松本の街と市民が、周囲の山々と共にその「事」を誇るようになる日がくることを、祈るばかりだ。


 

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