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沖縄

「そもそも沖縄に現代美術のメインストリームはあるのか。県立美術館もない。若いアーティストが活動する場もない。そんな環境を自分たちから変えていこうというのが、前島アートセンター設立のきっかけでした」
 神戸KAVCのフォーラムで、スライド写真を見せながらそう語り始めたのは、那覇市内前島三丁目をベースに展開するNPO法人「前島アートセンター(MAC)」の宮城潤だった。
 スライドには、何故か現代美術とは無関係な、町内にパトカーが映るものもある。宮城の解説はこうだ。
「実は前島町は一一年前に暴力団の抗争がありまして、すっかりさびれてしまっていたんです。その街をアートの力で活性化しようというのが活動の動機でした。その様子をわかってもらおうと思いまして−−−」
 飄々とした沖縄弁の語り口と写真のギャップに、会場は大爆笑だ。
 ところがあれこれ活動を説明し、会場からの質問に答えているうちに、宮城の言葉は悲しい袋小路に入り込んでしまった。
「実はNPO法人を二〇〇二年春に取ったとはいえ困っていることだらけでして、お金はない、備品もない。中古のマックもデジカメも全部個人のものなんです。当初会員は二〇〇人程度集まったんですが、会則で二年間会費未払いだと自動退会になります。来年四月が二年目なので、会員も半減しそうです」
−−−お金の話しはするなよ。
 実は前項で記したある助成企業幹部の発言があったのは、この時だった。宮城の解説や写真を見ている限りでは、前島には若い人間が集まっている。呑み屋が集まる雑居ビルの一室を自力でギャラリーに改造し、周辺の店舗を会場に美術作品の展示も行われている。町全体が沖縄の若いアーティストの活動の拠り所になっていることもわかる。
 それでも金がない。スタッフの労力にも欠ける。興味を持ってくれる人も限られている。持っているのは情熱と理想だけ。
 その状況の中で、一一月の一カ月間、国内外のアーティストを招聘し、地域にある素材を活かしつつ新しい価値を生み出そうというアート・イヴェント、「wanakio」を展開するのだと宮城は続けた。
 その姿は、ある意味で現在各地に散在するNPO活動の典型なのではないか。ここからどう脱皮するかが、NPOの課題になる。
 そう感じて、弘前取材の直後、沖縄に入ることにした。
         
「すみません。ビデオとスライドの調子が悪くて、絵が映らないんです」
 前島アートセンターにたどり着いてみると、案の定、規定の時間になってもとてもアーティストのスライド上映が始められる状態にはなっていなかった。沖縄出身、ニューヨーク在住の現代美術作家、照屋勇賢は、機械の脇で呆然と立ちすくんでいる。参加者もまだ数人という状況だ。誰もが言う何事にものんびりした「沖縄時間」とは、このことを言うのだろうか。
 MACのある前島三丁目は、観光客で溢れる国際通りから歩いても数分の所にある。バー、スナック、カラオケ等のけばけばしい看板が建ち並び、店の前のテーブルで昼間からビールを飲む老人の姿もある。歩いてみると「貸店舗」「売店舗」「アルバイトホステス募集」等の張り紙が随所に見られる。中に小さな扉が開いているスナックがあった。覗くと、暗い室内でビールを飲んでいるドレス姿の老婆がいた。神戸で聞いた宮城の解説そのままの、荒んだ夜の街という印象だ。
 MACが入るビルは五階建て。かつては最上階が結婚式場だった。「高砂殿」という看板が残っている。
「このビルができたのは復帰の年だから三一年前さ。当時は凄かったよ。前島は那覇で一番の繁華街だったんだ」
 会場の準備が出来るまで、インタビューに答えてくれたのはビルのオーナーで、MACの理事でもある山城幸雄だった。昭和二七年生まれの山城は、若い頃ヨーロッパを旅したり東京で働いたりした経験がある。その頃から美術には少なからず興味を持っていたという。MAC設立のきっかけを作った人物だ。
「最初はこのビルの五階でベトナム現代美術展をやったんです。二〇〇〇年のことかな。私はベトナム友好協会の事務局長をやっていたんで、会場を貸したんです」
 その頃すでに結婚式場は長い間使われていなかった。テナントも最盛期の三割程度に減っていた。抗争の余波を恐れて、儲かっている店ほど我先にと町を出て行った。前島は、夜になっても客引きばかりが目立つ廃墟状態だったという。
「だから町の活性化のためにやれることは何でもしましたよ。町内会で祭もやったしね。その時友人が、一枚の新聞記事を見せてくれたんです」
 それは、新宿ゴールデン街でアート展開催というニュースだった。やはり瀕死の状態だった古いバーにアートを飾り、それが好評だと書かれていた。
「ならば前島でもやってみようかと思ったんです。飲み屋ならいくらでもあるんだから、そこに作品を展示させてもらえばいい。ベトナム展は県の文化振興課からの話だったから、そこにお願いして若い芸術家に声をかけてもらいました」
 その呼び掛けに応えて集まった七、八人の中の一人が、当時瓦工房で働いていた宮城だった。県立芸大で彫刻を学び、首里城の修復に参加。その仕事が縁で、瓦職人奥原宗典の工房を手伝っていた。
「あの頃、県立美術館の構想も頓挫していました。美術界で民の動きが盛り上がらないと官も動けないということだったので、ここで面白いことをやろうと盛り上がったんです」 宮城の呼び掛けで若い作家が集まり、この年の秋、ベトナム現代美術展と平行して前島町内の空き店舗を使ったストリート・ミュージアムが行われた。宮城も作家として出品し、メディアにも取り上げられて市民の意識を前島に向かせるきっかけにはなったという。
 と−−−、そんな話を聞いているうちに、隣のギャラリースペースでは機材のセッティングが終わり、照屋のスライド上映が始まった。どんなものか覗いてみると−−−。
「これが僕の代表作品です。僕は今ニューヨークでこれで食っています。もちろん生活はギリギリですけれど(笑)」
 スライドに映っていたのは、何の変哲もないファーストフード・ショップの空き袋だった。ところが別のアングルから見ると、袋の一部に切り込みが入れられ、それが内部で美しい樹になっている。マンハッタンに生えている樹を写真に撮り再現したものだという。
 あるいは沖縄の紅型の着物のオブジェもあった。模様をよく見ると、米国のパラシュート部隊や飛行機、米軍基地に守られるヤンバルの森等がデザイン化されている。生まれ故郷の沖縄のどうしようもない状況と、その中で育まれてきた文化の力を表現したものだという。
 照屋は興味深いエピソードも話してくれた。
「ロスで個展を開いた時、一二歳の女の子が空き袋の作品を買ってくれました。親戚から貰ったお金でアートを買いたいとギャラリーを廻っていたそうです。僕はそれにショックを受けました。一〇代の子が十万円以上のお金を出してアートを買う。根本的に美術に対する社会の受け入れ方が違うんです。僕が今回このイヴェントに参加したのは、沖縄でもそんな欧米の文化に追いつく方向はないか。それを探しに来たんです」
 スライドとビデオ上映が終わる頃、時間はとっくに予定をオーバーしていた。ところが、いつの間にか会場一杯になった参加者は帰ろうともしない。中には自分の美術体験や作品批評を滔々と喋り出す人もいる。地元出身の照屋の作品に刺激され、参加者は熱くなっている。感動が素直に言葉に出る。それもまた、沖縄時間、沖縄感覚の魅力だった。
        
 それにしても二回目となる「wanakio」は、わずか三〇〜四〇人のボランティアと総予算約六〇〇万円のイヴェントとしては盛り沢山の内容だ。計二〇日間、MACだけでなく市内各地で約四〇プログラムが展開される。ストリート・ミュージアムでは外国から参加の十名を含む約三〇名のアーティストが作品を製作、展示する。
 そのほぼ全てを仕切るのが宮城だった。取材中も携帯電話は鳴りっぱなしだ。情報は一度宮城を経由しないと事が前に進まない。組織ではなく、誰からも「潤さん」と呼ばれる宮城の人望が企画全体の推進力なのだ。
 宮城もその弱点は痛い程わかっている。
「小さい組織なのに大きな事をやりすぎですよね。でも当初、芸術に何の力がある。若い奴らに何ができるという批判がありました。だからアートの可能性を見せるために必死だったんです」
 イヴェント開催中だけでなく、宮城や山城は、その準備段階でも周辺の組織を巻き込むために走り回ったという。
「例えば地元の婦人会にも顔を出して前年のスライド等を見せて説明しました。今年は町内会にも補助金を取って頂きました。少しずつ周囲の理解も得られたと思っています」
 宮城の言葉を裏付けるように、会場には町内会長の姿もあった。
「最初はアートで何ができるかわかりませんでしたが、暗い町を明るくしてくれるならいいかと思ったんです」
 この地に住んで四〇年以上になる町内会長の浦崎征八郎が言う。
「私自身、アートセンターで美術の面白さを教えてもらいました。ビニールを天井からたらして参加者にハサミで動物の形に切り込みを入れてもらうという作品があったんです。最初は何だかわかりませんでしたが、最終日にはちゃんとした作品になっていた。こういうアートもあるんだなと刺激されました」
 浦崎は、実は一〇数年前に前島に嫌気が差しオーストラリアへの移住を考えたことがあったという。長年住みながらも愛着の湧く町ではなかったのだ。ところが最近は、自治会長の集まりに出ると「前島はどうして若者が集まるようになったのか」と質問を受けることがある。「前島には生活感がある」と言われたこともあった。まだまだ生まれ変わったとは言い難いが、町が変わりつつある実感はある。つまりNPO設立の一つの目標であった「町おこし」という点では、徐々に成果は出ているのだ。
         
「でも、もう一つの課題があることも事実なんです」
 インタビュー中もかかってくる電話にあれこれと指示を出しながら、宮城はこんなことを話し出した。
−−−当初「面白いことをやりたい」という純粋な動機で始めた活動が、二回目のストリート・ミュージアムで矛盾にぶつかった。アーティストは会場を貸してくれる店に遠慮してしまう。店は芸術家の「卵」を支援するというスタンスをとってしまう。本来芸術は世事とは無縁であるべきなのに、地域活性のテーマが先行してしまった。
「例えば僕もあまりの忙しさに作品を製作する時間がなくなってしまったんです」
 宮城の言葉は切実だ。美術界を活性化する目的で始めた活動のために、表現者としての活動時間が削られてしまう。その矛盾に誰よりも苦しんでいるのが宮城だ。
 だからこんな言葉にも、説得力がある。
「本来は自分が楽しいことをやっていないと周囲もついてこないですよね。いい意味でもっと無責任になっていいのかなと最近は思っています。アーティストは本来、柔軟な発想の人であるはずですからね」
 とはいえ、宮城がそう語っている間にも市内各地でイヴェントは展開されていた。例えば国際通りの裏側を「街歩き」した建築家・真喜志好一のプログラムは面白かった。修学旅行生がそぞろ歩く観光ストリートの一歩裏側に、沖縄独特の大きな墓が残っている。今は既製品のような児童公園になってしまった丘の上には、かつてペルーへ渡った移民から寄贈された「児童館」が建っていたという。真喜志は古い写真のコピーを参加者に見せながら、「何故建物を壊してしまったのか。建物だけではなく、精神を壊してしまったんです」と嘆いた。
 そんな歴史を知ることで、ほんの少し沖縄に近づいた気持になる。街の歴史や物語を掘り起こすこともまた、アーティストの使命だ。
−−−沖縄は、街全体が猥雑で色彩も鮮やかだから、どこを切り取ってもアートの対象となりうる空間ですよね。
 昼食時、真喜志にそう語りかけると、大きく頷いてこう言った。
「そう。街全体をキャンバスにするような感覚でアート活動していけばいいんですよ」
−−−アートとは、社会のニーズの先にある感覚を表現するものだ。
 神戸KAVCでそう発言する人がいた。
 今こそその力が、沖縄のアーティストたちに試されている。


 

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