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弘前

「日本の美術教育には鑑賞者を育てるカリキュラムが抜けている。それを補う活動を展開したい」(アーツ・イニシアチブ・東京)
「NPOとは市民が運営する役場だ。世直し事業だと思っている」(芸術文化ワークス)「各NPO団体には問題意識やコンセプトをもっとくっきりしてほしい。名刺の裏ほどのスペースに活動意図が書けるのか」(セゾン文化財団)
「世の中のニーズの先にあるものを発明するのがアーティストであり、NPOはそれを社会に伝達していってほしい。困ったことに、多くの場合専門性が低過ぎる」(アサヒビール)−−−。
 一〇月十二、十三日。二日間に渡って、神戸KAVCに全国からアートNPO関係者約三〇〇人が集まった。九九年にNPO法が成立して以来、アート関連のNPOが一同に介する試みは初めてだった。
 この集いが企画された背景には、全国の活動の横の連絡を取りたいという各NPOの要求があった。同時に助成団体(企業)からは「将来的にはセンター組織がほしい」という要望もあった。乱立する助成申請の整理という切実なニーズがあるからだ。
 とはいえ、いずれも個性派のNPO団体が初対面でいきなりスクラムが組めるはずもない。自分たちの活動紹介に始まって、NPOの存在意義、もっと掘り下げてアートの存在意義、今の日本社会に欠けているもの、アーティストに欠けている社会参加意識、そしてNPO組織自身に欠けているもの等、多種多様な「問題意識」が披瀝される会になった。
 中には面白いやりとりもあった。
「もうお金の話しはするなよ。君たちは工夫がなさすぎるよ」
 我慢出来ないという風情で、ある助成企業の人間が発言した。あちこちの団体から聞こえてくる「お金がない」「助成がとりにくい」というおねだり型の嘆きに対して、日頃利益追求に血眼になっている企業人として我慢ならなかったのだろう。
「うちの会社は水も作っているのに、今日の会場では違う水が配られているじゃないか」 会場からは失笑も漏れたが、民間企業のNPOへの助成活動は企業のブランド戦略でもあることを考えると、一考を要する視点であったことは確かだ。
 そんな中で、弘前のharappaというNPOに申請中の団体から参加していた立木祥一郎は、こんなことを感じていたという。
−−−集まっているのは貧乏だけど知恵がある団体ばかり。今は氷河期だから、図体ばかりでかいところは淘汰され、知恵があるものが残っていく時代だ。
 同時にこうも思った。
−−−NPOという形で「公共」という概念を役所から民間に取り戻そうとする動きが津々浦々で始まっているんだな。
 分科会の中で、立木はパワーポイントを操って二〇〇二年八、九月の二カ月に渡って弘前市内で展開した現代美術作家「奈良美智展」の活動を紹介した。それは民の発案に始まり、人口十七・七万人の街で六万人の入場者を集め、述べ三五〇〇人のボランティアで運営し、約三千万円の利益を出したアート・プロジェクトだった。もちろん最初から金があったわけではない。町おこし的に行政との共働だったわけでもない。元々民の中に広まった「驚き」が、見事に公的なイヴェントに結実した結果だった。
「これはまぎれもなく事件だ」
 東京から視察に来た助成団体の人間は、ひと言そう言って帰って行ったという。
 何故こんなイヴェントが生まれてきたのか。何が成功の理由だったのか。立木が言う「民が公共を取り戻す」という言葉の真意はどこにあるのか。
 弘前を訪ねて、その周辺を調べてみることにした。
          ※
 それは、様々な人間の「驚き」の連鎖によって生み出された「事件」だった。
 最初に「奈良美智」の作品に驚いてアクションを起こしたのは、弘前市の中心部に大正二年建立の大きなレンガ倉庫を持つ吉井千代子だった。
−−−この作品の睨み目が私に似ている。
 ある時書店で奈良の作品集を見た瞬間、吉井はそう思った。同時にそのアーティストが弘前出身であることも知った。二〇〇〇年の夏、県が収蔵する奈良作品のレクチャーが行われることを知った吉井は反射的に閃いた。
−−−私の倉庫でこの作品を展示できないかしら。
 それがレクチャー会場への一本の電話につながった。
「奈良さんの作品を展示するのにはどうしたらいいでしょうか?」
 あまりに唐突なこの電話を受けたのが、県立美術館整備室学芸員の立木だった。
「もしかして吉井千代子さんですか」
 立木は直感的に、弘前のレンガ倉庫の存在と様々に伝説化されたそのオーナー女史のことを思い描いたという。
−−−奈良の作品の熱量に見合う展示場を市井の人間が持っているはずがない。あるとすればあそこしかない。
 津軽に移り住んで八年目の立木にも、レンガ倉庫と奈良の出会いは震えるような瞬間だったという。
 立木はさっそく倉庫に出向いてみた。初めて足を踏み入れる空間。高い天井。ひんやりとした空気。微かににおう時代の香り。そこは長い間黒い塀で囲われ、市民にとっては禁断の空間だった。内部はさすがに時代を感じさせる部分もあるが、丁寧に手入れも施され、周囲の雑草も刈り取られている。
 後に吉井は親しくなってから、立木にこう言ったという。
「高価な絵画を家の中に飾っている人もいるんだから、同じ価値観で建物をもっている人がいてもいいでしょう」
 吉井は年間数百万円の固定資産税と維持費を支払いながら、その倉庫をじっと守ってきた。その存在と対峙する「パッション」との出会いを待ちながら。
 偶然なことに、その驚きは作家・奈良にもまもなく連鎖する。同年八月。県立美術館整備室が主催する「キッズアート・ワールド2000」で五、六年ぶりに来青した奈良は、立木の紹介でレンガ倉庫にも足を踏み入れた。その日の日記にはこうある。
−−−スペースはとにかく「すごい」の一語に尽きる!(中略)子どものころから気になっていたレンガ倉庫の中を見れて、とにかく幸運だったし、横浜の展示会を弘前に持って来れそうで嬉しい! でも、ここのスペースは横浜より広いので、さらに大きな絵を描かなきゃな。
 折から奈良は、横浜美術館を皮切りに全国の美術館での巡回展が決まっていた。その展示会をあの倉庫でもできる。驚きは瞬時にアーティストに伝播した。
 次は主催する主人公の番だ。
 レンガ倉庫と奈良美智展。その話に驚いたのは、立木とは「なみおか映画祭」の実行委員仲間として長く親交のある地元弁護士、三山雅通だった。
「僕は正直言ってあの倉庫の存在が第一のモチベーションでした。あそこに入れる。美術展ができる。それに驚きました」
 それは多くの市民の驚きでもあったようだ。二〇〇二年四月、ボランティアを募集してみると、約六〇〇人もの応募者があっと言う間に集まった。
 後、参加者たちはこんな言葉をボランティア・ノートに残している。
−−−レンガ観は外観だけ見て、昔の三菱鉱山にある倉庫を思い由緒あるものと思っていました。
−−−レンガ倉庫に初めて入ってみて、自分がこの建物を使って展覧会のお手伝いをさせていただくことの重大さみたいなことを感じました。
 ところがこの組み合わせに驚かなかった人たちもいた。それは、行政内部の反応だった。
−−−あのレンガ倉庫のオーナーとは付き合わないほうがいい。ドタキャンされるかもしれないぞ。
 かつてこの倉庫は市が買い取るという話があった。津軽三味線館にしようという案もあったという。ところが吉井がうんといわなかった。行政には吉井の価値観が理解できず、吉井には行政のアイディアにパッションが感じられなかった。長い間の誤解が重なり、悲しい風説となっていたのだ。
「行政の反応とワイルドな倉庫を見て、主催は民間の力しかないと確信しました」
 立木が言う。自らは官に籍を置きながら、この時立木は民の力に手答えを持っていたことも確かだ。三上や吉井に言わせれば、立木が都心からやって来た「よそ者」であることもよかったという。そもそも青森には県立美術館がなく、全国的には周回遅れのランナーだった。これらの矛盾が、「民」の中に本当の「公共」を求める力に昇華していく。
         ※
「最初に民間の力を実感したのは、トヨタアートマネジメント講座を開催した時のことでした」
 立木が振り返る。それは九九年一〇月に開催され、二日間の講座と五日間のパフォーマンスの中で、数々のボランティアスタッフや企業、定員を上回る参加者を得たイヴェントだった。主催した立木は早くから、同講座の主旨である「地域の豊かな芸術環境の醸成」のためには民の力が不可欠として、地元青年会議所、学生、新聞記者らに声をかけた。その成功の余韻から、青森市内に国際芸術センター(ACAC)を支援する組織「AIRサポーターズ」が生まれたり、八戸に「ICANOF」という芸術集団が生まれたりしていた。
 さらに、二〇〇六年開館の県立美術館のプレイヴェントとして、街中を舞台にキッズ・アートワールドという名のアート・プロジェクトを主催してきたことも大きい。時には参加者が予想ほど集まらないこともあったというが、現代美術が館を出て地域に入る試みを重ねられたのは貴重な経験だった。
 そもそも川崎市民ミュージアムに在籍していた立木が青森にやってきたのは、県立美術館開館のために約一〇年も前からキューレターを雇うというその心意気に感じたからだ。青森は太宰や寺山、棟方といった芸術家の出生地だ。だが現代アートという意味では不毛の地と思われていた分だけ、やり甲斐もあった。
「奈良美智というアーティストとあのレンガ倉庫が出会ったなら、絶対にいい展覧会になることはわかっていました。だったら、やらない手はないと思ったんです」
 民の力を信じればこそ、立木には確信があったのだ。
 一方、美術には素人の三上が考えていたのは、やるからにはすっきりしたものにしたい。悪しき民主主義の轍は踏むまいという思いだったという。
「最初から町おこしを目指したり、物産展的なごちゃごちゃしたものにだけはするまいと思っていました」
 当初こそ実行委員もボランティアも予想通り集まるか不安だったというが、蓋を開けてみると、倉庫の掃除作業段階から参加者のモチベーションは高かった。途中からは「あれもやりたい、これもやりたい」というボランティアを抑えるのに必死だったという。
「例えばロゴひとつとっても、勝手に看板を描いてしまう人もいましたからね」
 三上が振り返る。
「集まった人の中には建築家も設計士もデザイナーもプロの学芸員もいました。そういうプロの仕事を前面に出していったことがよかったと思います。ボランティア集団とはいえある意味で専制的なディレクターがいたほうがいいというのは、映画祭をやってきた経験でもありましたから」
 時には発注寸前の看板を止めたこともある。ボランティアが敷いたビニールシートも撤去した。そういう中で、展示会はプロの高いレベルを維持することができた。
 その結果どんなことが起きたか。
 それは展示が始まる二日前のことだった。「奈良さんが当初の展示プランを突然変えて、一枚の大作を別の壁に掛け替えたんです」
 立木が未だ興奮冷めやらずといった表情でその出来事を語ってくれた。
 計画当初、奈良には珍しい横の構図の「プリンス・オブ・スヌーズ」という大作は、ホワイト・キューブの部屋に飾ることになっていた。ところが最後の最後になって、奈良はそれを荒々しいタールで塗られた黒の壁に架け直した。
「それは奈良さんが、自分の作品と九〇年の歴史を持つ建物との勝負に出た瞬間でした」 立木は言う。作品と対峙する空間がそこに現れたからこそ、作家はその凶暴性をむき身にしてきた。
 後、奈良は自らこう記している。
−−−これらの作品たちは結局ここで展示されるために作られたんだという気がしてならない。
        ※
 展覧会から一年後。立木や三上、吉井たちは奈良展の活動を将来に繋げるためにNPO設立に踏み出した。レンガ倉庫近くの衰退した商業ビルの一室を事務局にし、常駐のアルバイトを置いている。取材の日、そこに和菓子を持ってきてくれた吉井が呟くように言った。
「NPOって何だか流行の袢纏みたいで嫌ね。最近はパッションが感じられないわね」
 物事を直感的に捉える吉井ならではの言い方に、誰もが苦笑するしかない。
「いいんですよ。こういう活動はスローライフでやればいいんだから」
 立木がそれに答える。
 その団体にharappaとつけたのにはわけがある。県立美術館の設計士、青木淳の書いた論文の一説に刺激されたからだ。
−−−原っぱの楽しみは、その場所での遊び方を発明する楽しみであり、そこで今日何が起きることになるのかが予めわからないことのたのしみだった。
 レンガ倉庫はharappaの活動の拠り所であり吉井は理事にもなっている。けれどそこはあくまで吉井が企画にパッションを感じなければ貸し出されることはない。常にそこに存在するのではなく、ある日突然現れる「たまたま感」こそがアート・プロジェクトの魅力だ。パッションが多くの人間に飛び火した時に、その場のルールを決めて遊べばいい。
 究極の民だからこそ究極の公になる。
 そんなルールが、harappaのベースになっている。


 

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