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富良野

吹雪の中を、一台のパジェロが北海道上川支庁を目指して疾走していた。
 一九九九年十二月一日。この日は、約九か月前に議員立法として成立した「NPO法」を受けて、各地の都道府県行政窓口で申請受付けが開始される日だった。
−−−どうせ申請するなら一番になりたい。
 パジェロに乗る「ふらの演劇工房」の中心メンバー篠田信子と藤田嗣人の思いは一つだった。もちろん、一番に申請しても一番に認可されるとは限らない。けれど、早朝五時半起きしてでも一番に窓口にかけつけたい熱い思いが二人にはあった。
 二人が所属する工房は、「演劇による街づくり」をテーマに、正式には九七年九月に活動を開始していた。だが富良野における演劇の街構想は、八一年にテレビドラマ「北の国から」が始まってから様々な形で市民の中で醸成され、紆余曲折を経ながらすでに一〇数年間を数えていた。
 その間、いくつかの団体が現れては消え、劇場構想も三つが立ち消えて行った。
−−−今度こそ、長年の市民の思いをNPOという形で結実できるかもしれない。
 二人の中にはその思いがあった。
 同時に、これで駄目だったらもう二度と運動を盛り上げることはできないという危機感も強かった。
 そもそも彼らにとってNPOとの出会いも事件の一つだった。当初工房は「財団法人」設立を目指していた。けれど時あたかも拓銀の破綻等があり、三千万円の基金を集めるのは難しかった。その時、藤田がインターネットで「NPO法案を議員立法化」というニュースをつかむ。これなら資本金もいらない。市民の信用も得られ易い。翌日の幹部会で、全員の思いは一気に「NPO」に傾いていく。
「ここで一番に申請して一番に認可されたら運動にも勢いがつくと思ったんです」
 当時を振り返って篠田が言う。
「そうなれば当然話題にもなります。そうしたら、それまで動きの鈍かった行政の背中を押すことができるんじゃないか。それが私たちの狙いでした」
 それにしても何故−−−。
 富良野と言えばブラウン管から繰り返し流された雄大で美しい自然が思い浮かぶ。脚本家倉本○が住み込み、全国から集まった若者を演劇人として養成する富良野塾の活動もすでに二〇年にもなる。まさに演劇の街づくりに相応しい環境が整っているではないか。
 ところが取材してみると、全国に広まったイメージとは裏腹な事情が見えてきた。この間、演劇の街づくり構想は商工業者の思惑や選挙公約に利用されてきた。黙っていても観光客が二三〇万人も訪ねるようになったことで、行政の対応は後手に廻ってしまった。倉本○の存在ゆえに「演劇」がクローズアップされたのも事実。けれどその存在が逆に、市民と行政の関係をぎくしゃくさせたこともあった。もちろんそれは、市民主体の「街づくり」運動には不可避の混乱であり、摩擦熱ではあるのだけれど−−−。
 結局、吹雪の日から二か月後の九九年二月。篠田や藤田らの思いは見事に実を結び、「ふらの演劇工房」はNPO法人として全国で最初の認可を受ける。ほぼ同時に市は、報道に後押しされるように「演劇専用の小劇場」の建設に乗り出す。けれどここでも行政と工房、市民の間には様々な意志の不一致があった。
・劇場を創ったら、当然運営は工房がやってくれるはず。(行政側)
・いや私たちは本来、劇場運営のためにできたNPOではない。行政のコスト削減のために使われてはかなわない。(工房)
・何故富良野に劇場なのか。福祉や観光行政の方が先ではないか。(市民の声)
 様々な思惑が入り混じる状況はさらに引き続く。引き続きながらも二〇〇〇年十月、富良野スキー場に近くの丘の上に「富良野演劇工場」は完成する。
「全国初の公設民営劇場スタート」
「富良野発全国発信のソフト作りを目指す」
 各紙がそうかき立てた劇場は、NPO法人による画期的な運営方法で船出した。
 以来四年。その船出は、本当の意味での市民自治への助走だった。また別の意味では、倉本○、及び「北の国から」から富良野市民が自立を模索する「最初の一歩」になったと理解することもできる。
        ※
「理想の劇場の中で本当の理想は違うぞと自分の理想の場づくりをする。そんなことも面白いんだよね」
 公演のあとで、いたずらっぽくそう微笑んだのは、演出家・串田和美だった。
 九月六日。工房主催の事業として行われた「クシダ・ワークス」の公演は、あえて演劇工場を使わずに近くの原っぱが会場となった。
 串田と北海道演劇財団が主体となり、北海道、東京でオーディションを行って役者を集める。三年間、毎年夏にワークショップを展開して一本の芝居をじっくりたちあげる。この日の公演は、その試みの二年目の中間報告だった。役者たちは札幌、富良野、朝日町に滞在して稽古と公演を行った。最終年度になる〇四年には串田が芸術監督に就任する松本芸術劇場での本公演が予定されている。
「こんな季節に野外を使うなんて、串田さんが北海道の厳しさを知らないからですよ」
 公演前、分厚いウインドブレーカーを着込んだ篠田はそう言って笑っていた。
 実際寒い。外は風が強く体感温度は一、二度になる。それでも原っぱに何本もの松明をかざした「コーカサスの白墨の輪」は、素朴な温もりのある舞台となった。
「演劇工場が全国発信をうたっても、当初二年間はなかなかそこまでいきませんでした。でもこの作品はその取組みのスタートになると思っています」
 篠田が言う。舞台では、約一〇〇人のオーディションから選ばれた役者の中に、富良野塾のOBもいた。客席では工房スタッフによりいつのまにか火が焚かれ、焼肉や熱燗のサービスも始まっている。
「私たちの劇場は、きていただいた役者さんやお客様へのホスピタリティではどこにも負けないと思っているんです」
 工房の三代目理事長、西本伸顕が言う。
 その言葉通り、公演後工場内で行われた打ち上げではボランティアスタッフの手料理が並び、役者達にも大好評だった。役者、スタッフ、ボランティア。どの笑顔にも演劇の醍醐味を感じた喜びが満ちている。
 劇場もまた素晴らしい。針葉樹の森の中に建つキャパ三〇〇の演劇専用館。客席と同じ面積の広い舞台。観易い勾配とベンチシート式の客席。パネル式で削っても釘を叩いてもいい床と壁。廊下式の楽屋。客席の真下に造られた花道。公演前に役者やスタッフが寛げるグリーンルーム等々、倉本の助言を入れながらカナダ等の劇場を手本に設計したとあって、細部に演劇への愛が込められている。
 ところが劇場内を誇らしげに案内しながらも、篠田は所々で苦笑しながら「実はね」という悩みも打ち明けてくれる。
・現在工房の事務所として使っている部屋も、設計図の使用目的は違っていた。
・電話回線も一本あれば十分といわれ、二本目からは個人のものを引くしかなかった。
・市街地からの交通手段がタクシーしかなくて、個人の寄付でバスを用意した。
・舞台の平台も材木が用意されていただけで、自分達で造らなければならなかった。
・グリーンルームは倉本からの寄付。けれどそれを個人的に使おうとする倉本を説得する必要があった、等々。
 様々な部分に公設民営の「歪み」が潜んでいる。そもそも市が建てた劇場だから、部屋の使用目的一つ変えるのにも議会を通さなければならない。ところが運営は工房が担当すると決まってからも、市は設計図を公には工房側に提示しなかったという。
−−−工房の部屋もなくてどうやって運営するんだ。
 工房の悩みもわかる。
 最大の懸案は運営予算だ。通常劇場の運営費は建設予算の五%程度が目安だという。工場の建設費は約九億円だから、四千五百万円程度だ。運営を受託する前に、工房スタッフは岩手県銀河ホールの視察を元に、人件費抜きで二千万円程度と私案を出した。ところがこの数字が一人歩きしてしまった。議会答弁に使われてしまったのだ。
−−−それでは人件費も出ないではないか。 市の運営予算が可決された時、工房スタッフは唖然として声も出なかったという。
「それでも私たち。今までずっと黒字を出してきているんですよ」
 苦労話を話しながらも、ここの救いは篠田を初めとしてNPO理事やボランティアスタッフの全員が明るいことだ。NPO設立、小劇場実現に到るまでの道のりが長く険しかった分、全員に「やるっきゃない」という覚悟ができている。
 その背景を藤田が言う。
「受託当初、絶対に赤字を市民に負担させてはいけないということで、赤字の時は理事が個人責任を負うことを徹底しました。中には主婦もいましたが、最悪の時は百万円単位の出費も覚悟しました。それを理由に理事を辞めた人もいます。そのくらいしないと、市民の理解を得られないと思ったからです」
 除雪作業も劇場内作業もみなボランティア。パソコン等の機械類も個人の寄付。理事の給与なし。そんなやりくりの中で、工房は黒字を積み立ててピアノを買うまでになった。
 それにしても、と思う。何故市民がこれほどまでのリスクを背負ってNPO法人を維持しなければならないのか。市民主体の街づくりとはそれほどに覚悟がいることなのか。そもそも劇場の運営を見ても、NPOに丸投げで行政の働きが見えて来ないのは何故なのか。
 富良野の歴史は、もう少し逆上って振り返らないと見えて来ないようだ。
         ※
「私たちは財団設立準備会の当初から、いろいろな意味で自己学習、自己成長を遂げてきたんだと思っています」
 インタビューの日。冷静な物言いを崩さずに、藤田は何度かそう繰り返した。
 市内に住み、隣の上富良野町で司法書士を営む藤田は、工房の理論派の一人だ。そもそもこの活動を始めたのは、倉本○のファンクラブとして発足した「ALの会」に参加したことだったという。
「それまでこの町に住んでいても市民と倉本先生が触れ合うような機会はありませんでした。先生の周囲には元青年会議所(JC)のメンバーたちが集っていて、容易に近づけなかったんです。もちろんドラマは町のイメージアップにはなりましたが、市民と先生が一緒に何かやるというような雰囲気はありませんでした」
 七〇年代末期。倉本はNHKとのトラブルやテレビ界の雑事を疎み、世間を嫌って富良野に移住してきた。もともと交際家ではなく、文化人として「中央の人」だったから、市民としたら近づき難い雰囲気があったことは確かなようだ。
 倉本と行政とのスタンスもなかなか縮まらなかった。倉本は、例えば富良野塾も経営的には学校法人を取ったほうがいいと諭されても「そんなことだったらやらない」と頑に拒む程、「お役所」的な思考とは真逆の反骨気質の持ち主だ。その上、当初親しくなったJCメンバーが当時の革新市長と距離のある保守陣営の者が多かったという事情もある。
−−−行政は北の国からのロケセットに固定資産税をかけようとした。ロケに協力要請しても、それは民放の営利活動だからと言うものもいた。
 当時の行政はテレビによるイメージ戦略も、まして文化への理解など微塵もなかったという風聞が今も残っている。
 もっとも二〇年前の富良野を考えれば、それもまたむべなるかなとも思える。当時の富良野は、まさに「農業王国」だったのだ。
 明治○年に始まる開拓は、広大な湿原を相手に数世代に渡って田んぼづくりに格闘する歴史だった。昭和○年の減反政策が始まってからは、タマネギに作付け転換する激動もあった。それぞれの時代を農民は逞しく生き抜きぬいた。自然相手だけでなく、時にそのエネルギーは社会運動にも向けられた。小林多喜二の「不在地主」のモデルになったのも富良野農民だったし、初代市長も開拓農民の中から生まれている。
 もちろん開拓民の中には脱落した者も多い。けれど今に生き残った農民は、耕地を買い足し大規模農場化して、年商数億円規模の経営も珍しくない。
 一方観光業は、富良野ではむしろ新興産業だ。「北の国から」の放送が始まった八一年以前には、ホテルや民宿は夏場はクローズしていた。冬のスキー客以外、この地を訪れる観光客は皆無だったのだ。
「その前は富良野なんていっても本土の人は誰も知りませんでしたよ」
 倉本の理解者の一人で、富良野塾理事長の仲世古善雄は振り返る。
「私たちはへそ祭を始めて町おこしをしようとしました。修学旅行で本土にいくと、フリョウノ高校のみなさんと呼ばれてしまうような無名な地域だったんですから」
 仲世古は、フジテレビと倉本からの依頼を受け、地元住民をあげてロケへの献身的な協力をする。やがて放送が始まってみると、富良野にはどっと観光客が押し寄せる。ロケ地となった麓郷は通常なら市街から車で二〇分程度だが、夏の観光シーズンには渋滞で四時間かかってしまうことすらあった。
「そうなると農民には大迷惑だし、行政は苦情処理や交通整理をしなければならないでしょう。行政も大変だったとは思いますよ」
 仲世古も苦笑するばかりだ。
 一方で、「演劇専用の小劇場構想」は九〇年頃から何度ももちあがった。
 最大の理由は、倉本から出された富良野塾の発表場所がほしいという希望だった。塾は二年制だが、年を重ねる毎に富良野に留まるOBも増え、劇団としての力もつけてきていた。二度にわたるカナダ公演や全国ツアー等も成功させ、地元での評価も高くなった。
 市には文化会館がある。けれどキャパが七〇〇と大き過ぎ、演劇には向かなかった。だがいざとなると、劇場建設は費用が嵩むだけに様々な思惑が入り交じった。
−−−地盤沈滞している市街地に劇場を造って人を呼び戻そう。
 商工業者たちはその思いを込めて倉本に相談に行った。
−−−NO。私にはその責任も義務もない。 何度かの議論の末、倉本はそう言った。もっと純粋にあるべき劇場を考えていたのだ。
 別の機会に、仲世古達は駅前の農協倉庫の改造設計を設計士に依頼したこともある。
−−−だめだ。あまりに費用がかかり過ぎる。
 改造とはいえ消防法を考えると、新しい劇場を造るのとかわらない数字が出てしまう。
 何も決まらずに月日だけがたっていく。
 そんな中、「北の国から」の放送も一五年目を数える頃、市民の中に一つの不安が頭をもたげてきていた。
−−−いづれ「北の国から」も放送が終わる。倉本先生にしても、永遠に富良野に存在するわけではない。子ども達に残す「その後」の街づくりをどうすればいいのか−−−。
 それは、倉本ファンの中で語られてきた演劇というテーマが、初めて市民運動としての存在意義を持った瞬間だった。
「あの時私、ゾウキン作戦に出たんですよ」
 当時を振り返って、篠田は微笑んだ。
 時は九七年。富良野塾が二度目のカナダツアーに出る直前のこと。篠田はもう一度市民運動を起こそうと決心する。倉本が三か月富良野を不在にしている間に何もしなかったら、そのまま運動は立ち消えるという不安感があったのだ。
「あの時富良野塾は炭鉱をテーマにした芝居を創っていました。炭を使うので、稽古のあとで身体を拭くゾウキンが必要です。私は二、三〇〇枚のゾウキンを持って富良野塾に行き、倉本先生にお願いしたんです」
−−−もう一度市民運動を立ち上げますので、先生も是非協力して下さい。
 篠田の真剣な視線を受けて、倉本はこう答えた。
「わかった。では塾の壮行会を市民運動の決起集会にしよう」
 こうして九七年九月一日。富良野塾のカナダツアー壮行会の場で「富良野演劇文化財団設立準備会」が発足する。会場には、ALの会を中心とするファンたちに混じって、新市長となっていた高田○○の姿もあった。
 この時初めて運動の中心が町の有力者から市民に変わった。同時にそれは、篠田にも倉本にも行政にも、「変化」を求める契機でもあった。
「まず市民に徹底しなければならなかったのは、私たちの運動は倉本先生のためにやっているのではない。ファンクラブではないということを知ってもらうことでした」
 藤田は言う。
 富良野に住民票を移しているとはいえ、倉本とて一人の市民でしかない。まして富良野塾は民間組織だ。運動の目標がその支援では、認知は得られない。
「私たちの子どもが富良野を誇れるように。将来もこの町を愛して住んでくれるように、そのための演劇であることをことあるごとに語っていきました。反対派と話し合うたびに、私たちも理論武装していったんです」
 同時に篠田たちは、倉本へも様々な要望を出した。
−−−高校生のために富良野塾の公演をやってほしい。市民と一緒に舞台づくりをする機会もつくってほしい。
「それまで先生は、子どもは煩いからといって公演をしてくれなかったんですよ」
 篠田が笑う。ところが思い切って市内四校を集めて公演をしてみると、開始五分で客席は舞台に集中した。終焉後、「孫に勧められて」と夜の部にやってくるおばあちゃんの姿もあった。倉本もその姿に喜び、工場開設後、演劇アカデミーという名で市民との実験演劇を始めるまでになる。
 そしてもう一つ。篠田たちは運動を進める中で、富良野には無形の財産があったことに気付く。その財が持つ熱量が、篠田たちの活動を大きくサポートしたと言っていい。
 それは「富良野」というブランド力だった。         ※
「僕ら、富良野が演劇工場をやると聞いた時、あそこを失敗させるわけにはいかないと思ったものです」
 そう語ったのは、串田たち一行を町に呼んだもう一つの自治体、朝日町サンライズホールの漢幸雄だった。人口一九〇〇人の町にキャパ三〇〇人の立派なホールを持ち、自主事業も行う漢は、もう一つの肩書を持っている。「シアターネット 観劇代表」
 それは、道内二〇の自治体、財団、公社等を会員とするネットワークだ。
「北海道は演劇団体を呼ぼうとするとどうしても経費がかさむでしょう。まして三〇〇の小屋でペイするのは至難です。だから皆で情報を交換して合同企画をするんです」
 当初富良野市はキャパ七〇〇の文化会館がこのメンバーに参加していた。ところが完全な貸し館状態のために、参加しなくなった。
 NPO化してからは篠田たちがここに参加し、情報を共有している。
 それだけではない。実は劇場の設計図を篠田がやっと手にした時、それを見て「ここは修正したほうがいい」とアドバイスしたのはネットのメンバーだった。
−−−少しでも経験を持っているなら、次にできる劇場に生かすほうがいい。
 メンバーにはそんな不文律がある。もちろん行政マンとしては掟破りの行動ではあるが。「富良野というのは、北海道の素晴らしいイメージリーダーですよ。旭川の職員だって東京に行くと「富良野の近くです」と言うんですから。そこで演劇の火を消しちゃったら、それは僕らにも影響がありますから」
 漢はそう言って笑う。
 まだある。北海道には堀○○知事時代に生まれた「道立劇場構想」があった。経済的事情から現在それは頓挫しているが、富良野の劇場構想は、それに代わるものとして道も助成金等で最大限の協力をした。
−−−富良野には失敗させたくない。
 周囲から、熱い期待とサポートがあったことは篠田たちも十分にわかっている。
「NPOを準備している段階から、大勢の人に富良野を応援していただきました。富良野の力を改めて知る思いでした」
 工房がNPO第一号に認可された裏には、そんな歴史があった。法案ができる前からの勢いが認められたことになる。だからこそ、篠田や理事たちは、ここでNPO法人としてつかんだ信頼を裏切るわけにはいかないのだ。
「NPO職員、三百八十万円着服で懲戒解雇」。
 今年五月、工房に思いがけない激震が走った。一時的に金に困った理事の一人が、定期預金に手をつけた。事が発覚した時、篠田は迷わずに記者会見を開いた。
「このような不祥事が出てまこと申し訳ございません」
 すでに返金されたあとだったから、そこまでしなくてもという意見もあった。けれどNPO第一号の誇りと市民への責任において、はっきりとお詫びすべきだと篠田は言った。
「情報開示を徹底したおかげで、報道がエスカレートすることはありませんでした。知事にも手紙を書いてお詫びしました。私たち理事もスタッフも改めて自覚を高める契機になったと思います」
 悪びれずに篠田はいう。
 もちろん今もカツカツの運営費のままに活動は続いている。受託契約は一年ごと。市と工房がいい意味で緊張感を持った状態で、演劇工場はソフトを創り続ける。自分たちを過大評価しない。行政も過大に信用しない。それが四年間のNPO法人として培った智恵だ。
「今の課題は中期目標をしっかりと創ることです」
 西本が言う。
「各種助成金がなくなった時にどうするか。本当の意味での演劇の町づくりを市民とどう共有するか。発信事業をどうするか。NPO法の整備もまだまだこれからです」
「北の国から」をきっかけに誕生し、市民運動としての模索を経て、工房は今「自立」の試練に立っている。折からテレビ放送は終了し、富良野は自力が試される時となった。
 その中心に市民がいてNPO法人がある。かつけて開拓民たちが大地を切り開いた日から一世紀。今度は文化をテーマに、壮大な開拓が続けられている。


 

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