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座頭市・制作秘話

「たけしさん、私の頼みを絶対に断っちゃいやよ」
 はじまりは、逆上る事約三年前のことだった。所は浅草。ある寿司屋の座敷で、北野たけしとストリップの殿堂・ロック座オーナー、斎藤智恵子が向かいあった。
「なんですか。ママ」
 たけしは訊ねた。
 斎藤は周囲の誰からもママと呼ばれる。かつては勝新太郎や若山富三郎もそう呼んだ。
 昭和36年、二人の子どもを抱えて文字通り裸一貫で踊り子人生をスタートした斎藤は程なくしてストリップ劇場の経営者兼踊り子の元締めとなり、全盛期には東日本を中心に劇場を10館近く経営し配下の踊り子も三〇〇人は下らなかった。戸倉上山田では芸者置屋や居酒屋も経営し、浅草では大勝館という大衆演芸場も持っている。もちろんその仕事柄、人脈は表社会裏社会に縦横に伸び、かつては不動産資産も多数所有していたから都内の不動産業界で彼女の名前を知らない者はもぐりとも言わたほどだ。
 その興行界の大立者に対して、芸能界、興行界、踊り子、芸者、スタッフ等々、皆彼女を「ママ」と呼ぶ。それは77歳の斎藤を頂点とする巨大なヒエラルキーの下で生活する者の暗黙のルールでもある。
 たけしもまたその一人だった。
「たけしさんに座頭市を撮ってほしいの。絶対に嫌といったらだめよ」
「−−−−」
 後にたけしは、
「座頭市は勝さんのものなんだから俺は嫌だったけれど、ママにそう頼まれたら断るわけにはいかないから」
 と語っている。
 それにしても、何故映画界には無縁の斎藤が座頭市の撮影をたけしに懇願したのか。何故たけしはそれを承諾したのか。
 そこには斎藤とたけし、そして亡くなって7年になる勝新太郎という、いずれも芸能界の大物を結ぶ不思議な縁に理由がある。
「どうも皆さんこんにちわ、アコーディオンのcobaです」
 前作「Dolls」の舞台挨拶で、北野たけしはいきなり総金髪で舞台に現れ、そう言って観客の笑いを取った。
 その時点で関係者には箝口令が敷かれていたが、すでに「座頭市」の制作は始まっていた。たけしの金髪は、勝新太郎の座頭市のイメージを払拭するための役作りだった。
「早くから金髪にしておけば、座頭市の撮影に入る頃には金髪に違和感がなくなると思ったから。時代劇だってかつらをつけた瞬間にリアルじゃなくなるんだから、金髪だっていいんだよ」
 たけしはそう語った。斎藤もまた、この件については無頓着だ。
「たけしさんは勝さんの座頭市は撮りたくないと言うのよ。自分の座頭市ならやってもいいって。だから私は、どうぞ自由に撮ってくださいとお願いしたんです」
 けれどそのたけしの言葉には、こんな意味が込められている事は想像に難くない。
−−−勝さんと同じ土俵に立ってしまったら、それだけで負ける事は明白だから。
 だからこそ、映画制作の最初のステップとして、たけしはなんとか勝のイメージを払拭するアイディアを捻ったのだ。
 斎藤、たけし、勝新。確かにその組み合わせは破格であり話題性は充分だ。三者ともに独自の城を持つ「王」だから、それが連合を組めば無敵にも思える。
 けれどそこには大きな落とし穴があることも見逃してはならない。例えば座頭市シリーズを見ても、その殺陣シーンの迫力だけを論じれば、三船敏郎が敵役を演じた「座頭市と用心棒」よりも、天地茂が平手造酒を演じた「座頭市物語」の方がはるかに秀逸だったことは衆目の一致するところだ。三船が大物過ぎて、最初から引き分けになる事が分かりきっていたからだ。
 今回の座頭市にもその危険性はないか。
 はたしてたけしは勝の座頭市という呪縛から逃れる事ができるのか。
 三月三〇日、福山の撮影所で始まった今回の「座頭市」のロケで、たけしは繰り返し「勝さんと同じことをやってもつまらないから」「よくある踊りのような殺陣にはしないから」と語っていたという。勝の殺陣は、その少年時代に毎日目にしていた歌舞伎や邦楽の世界の踊りがルーツだ。この発言がそのことを意識したものならば、それは勝への挑戦状とも取れる。脚本を書き出す前の準備段階で、たけしは勝の座頭市を全て観たという。一口に全てと言っても映画で二十六本、テレビバージョンは百本もあるのだから、途方もない作業だったはずだ。
 どんなに多忙でも創作の準備には細心の注意と集中力で臨むたけしは、やれるだけのことをやってクランクインを待った。
 だからその金髪は、勝の座頭市に敢然と挑もうとする映画人・たけしの意気込みであると同時に、勝と座頭市の存在の大きさを誰よりも熟知するたけしの震えでもあった。
       
 では何故斎藤が座頭市なのか。
「初めてママさんが座頭市を撮りたいと言い出したのは、九九年秋のお孫さんの結婚式のあとだったと記憶しています。その時はあまりに唐突な提案だったので多少の違和感があった事は事実です」
 大映時代から勝新太郎と苦労を共にし、勝が独立プロを作ってから九六年に亡くなるまで、常にその存在を支えた現・勝プロモーション常務、真田正典が言う。
 そもそも斎藤と勝を結ぶ線は、座頭市から伸びている事は確かだ。
 その出会いは七七年頃のこと。当初、斎藤と親交があったのは兄の若山富三郎だった。京都映画時代に放蕩の限りを尽くし、その頃は住む家もない状態だった若山に、斎藤は浅草のアパートの一室を貸しあたえた。
−−−おい利夫。浅草に面倒みのいいママがいるよ。
 ある日若山は、勝にそう囁いたという。
 当時勝は、「座頭市」の舞台をスクリーンからブラウン管に移し、「新・座頭市」第一シリーズを制作しているところだった。
 七四年一〇月から始まったテレビシリーズは視聴率的にも好評だった。映画と違いテレビシリーズは毎回大物ゲストを招き、それを中心にストーリーが廻っていく。ロケ現場には石原裕次郎、北大路欣也、松坂慶子、いしだあゆみといったスターたちが顔を揃えた。勝の座頭市は「受け」の芝居でよかったのだ。
「勝ちゃん。これで予定通り撮影が終わればこんなに儲かる仕事はないよ」
 大映時代からの勝の仲間の監督たちは口々にそう言った。セットを組まずロケ中心で行いゲスト以外は勝の子飼いの役者が脇を固めるのだから、制作費は安価に抑えられる。
 しかも当時弱小だったフジテレビは、銀幕の大物勝新太郎を引っ張り出すために、通常の製作費の三割増しで契約してきた。年間にシリーズ二六本を制作すれば約五億円という破格の条件だった。
 この好条件の中で勝は製作、監督、脚本、主演と八面六臂の活躍を見せた。
 けれどそれが誤算だった。
「ママ、すみませんが勝の映画資金が足りません。勝は何としても映画が撮りたいといっています。資金を提供して頂けませんか」
 最初に斎藤の前に現れたのは真田と中村玉緒だったという。
 勝はその頃、テレビ番組を映画の感覚で撮りまくっていた。セットを組まないとはいえ、冬の雪のシーンを求めて若狭海岸までトラック一〇台に機材を積んで出掛ける事もあった。脚本がうまく上がらない時は平気でロケを中止し、逆にストーリーが閃くとゴールデン街で飲んでいる石橋連司に電話をして「明日スケジュールがあいていないか」と呼び出したりもする。
 翌日、石橋と勝、そして萩尾みどりの三人で撮影が始まり、そのまま最後まで行くかと思いきや、三日目には「飽きた。ストーリーが浮かばない」といって解散してしまう。
−−−そういうのってすごく楽しいんですよ。
 後に石橋は書いている。確かに役者としては冥利だったに違いない。
 けれど経営は別だ。フジテレビからの製作費約二〇〇〇万円は毎回あっと言う間に底をつき、一本製作するたびに一〇〇〇万円近くの赤字を出してしまう。
 七四年一二本、七五年十四本、七六年十三本、七七年十六本、七八年十九本、そして七九年に二十六本。この調子で勝は座頭市を製作し続けたのだから、勝プロの経営は借金が雪だるま式に増えて風前の灯だった。
「でも勝プロの経営が傾いたのは製作赤字だけが原因じゃないんです。実は水商売の方に原因がありました」
 斎藤と出会った頃を振り返って真田は言う。
 勝は映画の全盛時代の昭和三〇年代後半から四〇年代にかけて、年間一二本以上の作品に主演し、一本の出演料が当時の大卒初任給の約二〇〇倍だった。今で言えば、年収四〜五億円ということになる。
 その勢いで勝は財布を持たずに毎晩豪遊を繰り返した。だから事務所のスタッフも勝がどのくらい使ったのかは月末にならないとわからない。
 けれど真田によれば、それでも勝が使った金はそれほどでもなかったという。
「勝は人に勧められて銀座に二軒水商売の店を出したんです。これがジャブジャブ金がかかりました。勝プロの従業員の給料が五〇〇万円の時にクラブのホステスの給料は二〇〇〇万円くらいかかりました。これは別会社を作って経営に当たりましたが、勝プロが手形の裏書きをして保証をしていましたから、同じ事だったんです」
 この頃懐具合が苦しかったのは勝だけではなかった。真田もまた、資金繰りに苦しむ事務所と一体だったから、その日の小遣いも切らす有り様だった。そんな時真田は浅草に出掛け、夕方になるとママと一緒にマージャンをする。夜はそのままママのアパートに泊まり、翌朝小遣いを貰って勝プロに出社する。そんな日も少なくなかったという。
 この頃から傾いたのは経営だけではなかった。勝の運命そのものも、坂道を転がり出す。
 七九年には有名な「影武者降版事件」があった。その理由は未だ定かではない。黒沢明と勝新太郎。二人の天皇は並び立たなかった。
 このことで勝プロの経営にも大きな穴があいた。勝の出演料は五〇〇〇万円。半年間の拘束のために他の仕事は全てキャンセルしていた。それだけでも大きな痛手だ。その後日本テレビで放送した「警視−K」というドラマが不振で打ち切りになったことも追い打ちをかけた。
 八一年九月、勝プロは負債総額一二億円を抱えて倒産した。この倒産を決断したのは斎藤とその息子、当時勝プロの役員だった斎藤恒久だった。
「ママ、もうこれ以上頑張っても無理だから倒産させましょう」
 勝プロ傘下の役者、松平健と共にハワイに仕事に出ていた恒久が、国際電話で斎藤に告げた。「そうか。わかった」
 斎藤はそう言うとあえて裏書きした勝プロの手形を落とさなかった。同時にそれは、斎藤の元に債権者がおしかけることを覚悟をした決断でもあった。
「一カ月だけ待って下さい」
 斎藤は集まった債権者にそう言うと、渋谷円山町に持っていたホテル、幡ヶ谷の映画館、そして浅草のマンションビル一棟を売却した。
 当時の額で約五億円。バブル期ならば、一〇〇億円は下らないと思われる物件だ。
 斎藤は当時、勝の水商売のことは知らなかったという。与えた金は全て映画やテレビの製作に使われていたと信じている。今もその金は返って来ない。その後再建された勝プロモーションでの儲けは他の債権者に先に廻され、やがて九〇年、勝のハワイでのコカイン所持事件を機にまともな仕事はなくなってしまう。女優としての中村玉緒は別の事務所に所属しているから、返済原資がたまらない。
 結局斎藤には一銭も返済出来ないまま、九七年六月二〇日、勝は逝った。だから余計に「座頭市」は、斎藤にとって思い入れのある作品になった。
「いつかは座頭市をと私はずっと思っていました」
 斎藤は言う。
「それがたけしさんと出会い、彼の映画や活動を見て、是非たけしさんに撮って欲しいと思ったんです。たけしさんは浅草を愛してくれています。私も浅草が第二の故郷ですから、ご縁があると思ったんです」
 実は「座頭市」の映画化権は、九〇年のハワイ事件の後、困窮した経営を理由に第三者に売却されていた。斎藤はそのことを知ると手を尽くして相手方プロデューサーを探し出し、交渉してこれを買い戻した経緯がある。それほどまでして座頭市を撮りたかったのだ。
 だから斎藤が「たけしさんで座頭市を撮りたい」と言った時、真田にも玉緒にも、それを引き止める理由はなかった。勝の七回忌の折り、報道陣に囲まれても玉緒が座頭市に関しては無言を貫いた背景にはそんな理由があった。座頭市は、勝ひとりのものから斎藤とたけしと三人のものになった。
 そして再び歩き始めた−−−。
        
「たけしさんは撮影が始まる半年も前からタップダンスの特訓をしていましたよ。女形で売り出した橘大五郎も座頭市に出演するんですが、名古屋の劇場に出ている時も日帰りで青山のたけしさんの自宅地下の稽古場でタップを習っていました」
 斎藤が嬉しそうに言う。
 今回たけしは、作品に通奏低音としてタップのリズムを採った。
「昔高田浩吉さんの時代劇映画で、彼が鼻唄交じりに畦道を歩いていると、田植え中のお百姓さんが一緒に歌い出したりするっていうのがあってさ。漫才では「そんなのあるか!」ってツッこんでたけど、いざ自分がやるとなるとありだなって。おいらの場合は、鋤や鍬で田畑を耕す動きに合わせてラップのリズムを入れちゃう。お百姓さんがパーカッションを持っていたりしてさ」(サイゾー二〇〇三年八月号)
 誰よりもタップがうまいのはたけしだ。浅草時代から修業を重ね、今もリズミカルな動きをこなす。
「最終シーンは約六〇人がお寺の境内でタップを踊るんだそうです。私はまだ観ていないのですが、今から楽しみでしょう」
 斎藤もロケの合間にたけしから聞かされる粗筋に満足そうだった。
 けれど今回のロケの詳細を見ていくと、これまでの十本のたけし映画とは勝手が違うことの連続であることは間違いない。
 まず、これまでたけし作品の象徴だった「順撮り」という、台本の最初から撮っていくスタイルが放棄された。
 たけし映画では、役者のアドリブで台詞が決められ、ふと漏れたひと言でストーリーが変わる事が当然だった。「HANABI」では、車椅子の男を演じた大杉連が「ベレー帽でも買ってみようかな」とアドリブで呟いた。次の瞬間、ベレー帽は作品のキーワードの一つになり、海でベレー帽を被るシーンが付け加えられた。
 けれどそれは現代劇での話だ。今回、スタッフも予算も撮影時間も比べようもなくかかる時代劇では、たけしは最初からこの作り方は諦めていた。映画の撮影中でもテレビのレギュラーを降りられないたけしの都合にもよるが、撮影日数約四〇日。予備日なし。ナイトシーンでは撮影が深夜に及び、雨が降ったらアウトというギリギリの条件は、まさに綱渡りだった。
 これを、勝の撮影と比べると面白い。
 勝はテレビシリーズ最後の作品「座頭市・夢の旅」では、わずか六〇分の作品の撮影になんと四か月もかけている。
 この時は勅使河原監督が「目の開いた座頭市を撮りたい」と言い出した。かねてから目が開いたらお終いだと言っていた勝も、「テシさんだったら」と言って承知したという。
 製作費は六〇〇〇万円。テレビ局から貰う予算の約三倍だ。
 だがこの時勝は、予算とか製作費を越えて別の事を考えていたという。
 それは、「世界への夢」だ。
 勅使河原と組んだ作品で、勝が使ったのは16oフィルムではなく世界標準の35oフィルムだった。すでにこの頃には香港に「勝電影」という事務所を持ち、香港、台湾の市場を切り開こうと必死だった。
 事実勝の座頭市は、すでに世界のメジャーでもあった。ハリウッドでは、後八九年にルトガー・ハウアーが座頭市を翻案して「ブラインド・フューリー」という映画を作っている。スイスの奇才画家バルテュスもまた勝の座頭市の大ファンだった。九六年には誕生日に勝夫妻をスイスに招いた事がある。亡くなる前年の事だ。この時勝は実父の死去のため、滞在二日でスイスを往復している。またキューバのカストロ首相が座頭市の大ファンだったことも有名だ。
 座頭市は中南米やアフリカでも放送され、香港ではジェームス・ボンドの「007」よりも勝の「盲侠聴声剣」(座頭市の現地名)
の方が観客数で軍配があがったこともある。
 欧米やアジアのファンも、座頭市の魅力に酔っていた。その魅力の大きな要素は、盲目、逆手居合斬り、そして勝独特の「間」だった。
 勝は書いている。
−−−ピーンと神経を集中させると、観ているお客さんも「さあやるぞ」と息を詰める。そして一瞬のうちにバッと斬る。ドサッと音がして、相手が倒れたとわかってからスーッと刀を仕込み杖におさめる。静から動。また静。剣道で言う「残心」だ。
 またこうも言う。
「相手を全部斬っても、まだ相手の心臓の音を聞いていなくちゃ行けない。何しろ目が見えないんだから」
 それが勝が会得したリアルだった。欧米の映画ファンも、それに魅了されたのだ。
 対してたけしの殺陣はどうか。
 たけしも勝と同様、作品の真価が問われるのは殺陣のシーンにあることはわかっている。
「人を斬る時のリアルにはこだわったよ」
 たけしはインタビューに答えて言う。
「昔の時代劇は身体に刀が当たっていないのは当たり前だったけど、オレは斬れてもいないのにと言われるのが嫌だから、とにかく時間をかけて撮ったんだ」「殺陣はつい目を開けている時もあるね。刀を振り回して本当に相手に当たると危ないから(笑)」
 作品中たけしの座頭市の圧巻は、赤い仕込み杖を振りかざしての「七人斬り」のシーンだ。撮影所には大きな貯水タンクが用意され、三時間放水しっぱなしで撮影が進んだ。ずぶ濡れのたけしは、寒さに震え、翌日は筋肉痛で湿布の力を借りるほど力を入れてこの撮影を乗り切った。
「おいらはこれまでにもフランス座や映画で殺陣はやってきたから刀の扱いには慣れているんだ」
 たけしは言う。
「でも今回は仕込み杖を使った逆手での殺陣なのでこれまでとは勝手が違う。基本の動きは縦と横くらいになっちゃうから派手さがない。だから、鞘に納める時は無茶して背中に廻してやったりと変わった手を使っているよ。勝さんの殺陣には影響されないようにしたしね。それをやったら、皆笑うもん。盲目で居合抜きの達人ということ以外は勝さんのイメージは取っ払ったんだ」
 だが共に殺陣にこだわりをもったとはいえ、両者には明らかな違いもある。作品を全体として観れば、勝の座頭市がは「間」によって動きのメリハリを出している。それは歌舞伎や邦楽で学んだ独特の素養だ。
 対してたけしは浅草時代に学んだタップという「リズム」で作品全体を表現しようとする。間とリズム。その二つはまさに表裏一体をなすとはいえ別物であり、二人の役者の出自の違いを象徴的に物語るものでもある。
 エンタテインメント作品としてたけしの座頭市はどんな評価を得るか。
 それは、間とリズムの戦いとみる事もできる。
          
「映画ができたらねぇ、ママ、二人でヨーロッパに行きましょうとたけしさんが誘ってくれているのよ」
 撮影も大詰めを迎えていた頃、大勝館に隣接する食事処で斎藤が嬉しそうに教えてくれた。たけしは座頭市が完成後、ヨーロッパの映画祭に座頭市を何らかの形で出品しようとしているのだ。
 座頭市を世界に出したい。
 勝の望みは斎藤とたけしに引き継がれ、今、それも実現しようとしている。
「ハリウッドに住んでいる千葉慎一さんも以前私の所に来たんですよ。三億円で座頭市の権利を買いたいって。その時は断りましたけれど。でも、たけしさんなら世界に行けるんじゃないでしょうか」
 斎藤は言う。
 もとより今年五月のカンヌ映画祭では、金髪のたけしが赤い仕込み杖を一閃させるポスターが貼り出され話題となった。
「なぜチャンバラに金髪なのか」
「キタノが作るサムライムービーについておしえてほしい」
 そんな問い合わせが、海外配給の交渉窓口となるフランスの映画会社「セルロイド・ドリームス」に殺到したという。
 もともと監督たけしの評価は海外で高い。作品の基調となる青は「キタノブルー」と呼ばれているし、昨年パリでみかけた「バトルロワイヤル」のポスターは、たけしの映画のようなコピーが添えられていた。
「カナダとイタリアの映画祭に連れて行ってくれるんでしょう。たぶんそれがたけしさんの私への感謝の気持ちなんでしょうね」
 斎藤が無邪気に言う。
 そのプレゼントはただの「旅行」なのか。あるいはその旅に途中から「世界の喝采」が加わるとしたら、勝の遺志は、斎藤とたけしと三人の力で叶うことになる。


 盲目の逆手居合の誕生秘話を、勝が書いている。
−−−夏の晩だった。電気を消してゴロンと横になっていると、蚊がブーンとぎふがる。畜生と思ったが真っ暗闇だ。カンだけで小一時間追いかけているうちに、パチンと仕留めた。そうだ、盲目の剣士がカンだけで人を斬る、オモシロイと考えたのが座頭市剣法の発想だった。(中略)シリーズが当たり始めた頃、歌舞伎座の舞台で実演したこともあったが、まだまだ当時はうまくいかなかった。悔しいからヒマさえあれば.一人で稽古する。あんまり白目をむいてあばれすぎ、頭が痛くなって倒れたこともあった。
(「一周忌追悼記念、勝新太郎」)
 座頭市シリーズが始まる前に、すでに盲目の悪人を主人公にした「不知火検校」を撮っていたとはいえ、勝にとっても盲目の剣法を会得するのは並大抵の事ではなかったことがわかる。


 

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