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浅草・前原光栄商店

 雨の日が好きになるような傘を作ること。
 東京浅草で三代続く老舗洋傘メーカー、前原光栄商店には、代々、そんなポリシーが息づいている。
 二階の事務所のボードには、取引先の名前が並んでいる。三越、松屋、松阪屋、大丸、伊勢丹、高島屋、東急、小田急等々。そうそうたる百貨店の名前が並ぶ中で、目下急成長の売り上げを記録する取引先になった日本橋三越との信頼関係は、実は一本の傘の修理から始まったという。
「それ以前は、月に五万円程度の取引だったんです」
 三代目の若き社長、前原慎史が言う。
「ところがある日、三越の売り場に八〇歳くらいのおばあちゃんがやってきて、自分の嫁入りの時にもらった傘の修理を頼んできたんだそうです。六〇年以上前の傘でした。その修理がうちにできないかと廻ってきて引き受けたところから、それまでにない信頼関係ができて、今では売り場に特別な什器を使って展示してもらうまでになっています」
 一口に傘といっても、そのパーツが一四〇にもわかれることをご存じだろうか。「傘」という文字に刻まれた四つの「人」の文字は、それだけの職人が揃わないと完成しないことを示しているという。生地職人、骨職人、手元職人、張り職人。それらの技術が揃って初めて「傘」になる。
 もちろんこの業界もご多分に洩れず、国内の職人は激減し生産現場は中国に大移動している。だから各メーカーには、冒頭のおばあちゃんのケースのような昔の傘を修理する職人もいなくなってしまったのだ。
 唯一残ったのは、三代に渡って完全手作り、国内生産を貫く前原商店だけとなった。骨は東大阪の職人、生地は山梨の工房、張り職人は都内の三人といった具合に熟練の職人達を使い分けながら、皇室御用達から一般用まで、昔ながらの傘を作り続けている。
 けれどその老舗の歩みも、一筋縄に進んできたわけではない。今から七年前、大きな波乱があった。慎史が言う。
「平成九年に父が急逝してしまって、私は何の準備もなしに跡を継がなければならなくなりました。二四歳の時のことでした」
 その五、六年前に癌の手術をしていた先代・裕司が、この年、癌を再発させてあっと言う間に亡くなってしまった。この時慎史は、四年間のアメリカ西海岸への大学留学から帰国したばかりだった。
「卒業しても何かやりたいことがあったわけではなくて、家に戻っても、毎日本ばかり読んでいたんです」
 葬儀の後、慎史は傘づくりに関して父から何も継承していなかったことに改めて気付く。それでも取引先との関係はあるし、家族や従業員が生きていくためには家業を継続しなければならない。
−−−どうすればいいのか。
 この時慎史が始めたのは、職人の下を繰り返し繰り返し訊ねて、傘づくりをイロハから教わることだった。本来なら父から教わるべきものだが、それが無理な以上、父の薫陶を得た職人から教わるしかない。当初は何を聞いたらいいのかすらわからなかったという。それでも職人の家や工房を訊ねて、この部分はどう作るのか。いい傘と悪い傘の違いは何かといった基礎から、慎史は訊ねて行った。
 当時の事を、前原商店を支える張り職人の一人、樋口完が振り返る。
「私は楽天家だから先代が亡くなっても何とかなるだろうと思っていましたが、現社長は必死だったと思いますよ」
 江東区篠崎にある樋口の工房を慎史が訊ねて来るたびに、樋口は知っている限りの傘の知識を教えて行った。
「私自身、三五、六歳の時に先代と出会って、そこから修行時代に戻った完全手作りの傘を作るようになったんです。その前は大手メーカーの機械製品の一部をやっていましたから。先代は厳しい人でした。できあがった傘の張り具合を陽にかざすように見て、いいか悪いか見定めるんです。一度いいとなったら、そこからは信用してくれましたが。だから、先代に教わったことを全て、現社長にお教えしたんです」
 それにしても、傘がこんなに奥深いものだとは知らなかった。まず骨にしても、四本、八本、十二本、十六本と何種類もある。めったに見ることのない十二本や十六本の傘を開くとより円形に近く、閉じても細身になるそのシルエットは実に美しい。
 各パーツにもそれぞれ「理由あり」の工夫が施されている。
 すべての骨が集まる傘の中央部のろくろには、真鍮が使われる。強さと中棒を傷つけない丁寧な仕上げが要求される部分だ。
 さらにその上に、布が巻かれる。生地を痛めないためでもあり、見た目も美しい。
 上下二つあるハジキ(スプリグ部分)にも、秘密がある。通常は一・五ミリのピアノ線が使われるというが、前原商店のものは錆びにくい燐と銅の合金製。ハジキにかかる力を考えて、下ハジキは直径一・二ミリ、上ハジキは一・三ミリと微妙に変えている。それらをひとつひとつ手で曲げて、メッキを施して完成となる。
 雨の雫がたれる露先にも注目して欲しい。 普通はプレスで穴が開けられるだけだが、前原商店の高級品になると、穴の周囲のバリを丁寧に取り、錆止めをした上で塗装される。
 さらに中棒には堅い樫の木が使われ、ステッキにもなるという。
 その上、特注品にはこんな工夫もある。
「天皇陛下に使って戴く傘の場合、父は石突きと呼ばれる傘の上部の棒の部分を普通よりも長く作りました。陛下は比較的傘を深くさされるので、その分石突きを長くして全体のバランスが見栄えよくしたんです」
 一階のショールームには、傘をさした天皇陛下の写真もある。天皇は、ある乗馬場で傘を褒められた折り「前原さんのところの傘です」と嬉しそうに語ったという。美智子妃や雅子妃も含め、皇室にとっても愛用の一品になっていることは間違いない。
 こうして前原商店の三代目が誕生して七年。昭和二三年の創業から数えると五六年。その商品の質や精度、あるいは価格にはほとんど変化はないが、たった一つ大きく変わったことがある。
 それは、慎史の傘に対する思いだ。
「最近、この仕事がものすごく面白いと思えるようになってきました」
 慎史が言う。会社に入った同級生たちと話しても、自分の仕事のやり甲斐は誰にも負けないと感じるという。
「今振り返れば、高度成長期に社長になった父がよく大量生産に向かわなかったなと思います。父は仕事場が好きな人で、好きな職人さんと話すのが楽しそうでした。私生活ではあまり物を持たない人でしたが、いい物は長持ちするといって、愛用の物を長く使っていました。私たちを遊園地に連れていく時でも、仕立てたスーツで行くような人だったんです。私もこの仕事を継いでみて、やっと傘の魅力がわかるようになりました」
 アメリカにいってもみつからなかった「やりたいこと」に、慎史はやっと出会ったのだ。
今は車を運転していても、歩道を行く傘の中から自分が手がけたものを判別できるようになった。銀座通りを走っていてその傘を見つけると、思わず車を止めそうになるという。 同じ意味の言葉を樋口も言う。
「前に錦糸町の横断歩道で私の傘をさしている女性をみかけたんです。嬉しくて握手したくなりましたが、そうもいきませんしねぇ」 日本の傘の生産量は年間一億本以上と言われる。その中で年間二、三万本しか生産できない前原商店の製品は、わずか〇・〇〇二、三%でしかない。これでは街中で出会う機会はめったにない。それでも判別できるのは、慎史の中に、父と祖父の傘にかける情熱が宿った証拠だ。
 取材の最後。私も欲しくなってあまりに美しいシルエットの骨十六本の傘を買ってみた。柄に名前を入れてもらうため、手元に届くまでに時間がかかった。その傘が来た日から、私にも変化があった。
 今は無性に、雨の日が待ち遠しい。


 

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