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倉本聡

「身体の奥底に、メラメラと燃え続ける怒りの種火のようなものをお持ちですよね」
 インタビュー中、年若い書き手が唐突にそう問うた。
 倉本聡は一瞬フフッと笑った後で、しみじみとした口調でこう言った。
「種火か。それは面白い表現だね。確かに僕はどこかで年中怒っている。怒りの種火か。確かにありますね」

         

 始まりは、全て「怒り」だった。
 齢六八歳になる倉本聡の歩みには、その折々に「怒り」の激しいエネルギーによる句読点が打たれている。テレビ界に。社会の欺瞞に、常識に、待遇に。今時の若者に。そしてこの国のありように。
 だからそのエッセイは、全編、この男が如何に憤ってきたかのエネルギーの歴史だ。
 その憤りから生み出された「何か」こそが、倉本聡の「創造」といっていい。

 例えば二〇代の初め、東京大学在学中、というよりも劇団仲間の一員として活動しながら一方で創成期のテレビやラジオに脚本を書き始めていた頃のこと。
 あまりにも理不尽なテレビ界の応対、それを経験した屈辱と憤りを、倉本は刻むようにこう書いている。

「あなたのホンはダメです。使えません。他の作家にホンを頼みました。申し訳ないが引きとって下さい」
 まさに青天の霹靂だった。というより何が起こったのか判らなかった。決定稿をあげたとき、これで行きましょうと彼は云ったのだ。 顔から血が引き、全身が震え、屈辱の二文字に打ちひしがれて僕はTBSの裏門を出た。(中略)
 あの時味わった屈辱は昨日のことのように今も蘇る。
(「愚者の旅」三六頁〜三七頁)

 時は下り名作「北の国から」もまた、倉本の怒りが原点にあった。
 富良野に移住して三年目の倉本の前に、ある日フジテレビの男がやってくる。
 当時大ヒットとなった「キタキツネ物語」と「アドベンチャーファミリー」のようなものを北海道を舞台に書けないか。都会の人間が描く北海道のイメージをそのままドラマにしてくれればいい。そうすればドラマは必ず当たるはずだから。
 この不躾な言葉が倉本の種火を刺激しないわけがない。一気に真っ赤な炎が燃え盛った。

 ふざけるな! 貴様、何サマのつもりでいるンだ! テレビはいつからそんなに偉くなったンだ! 北海道の人間が見て満足してくれる北街道なら俺は書く。北海道に住む者を無視せよというなら俺は書かない!
「北の国から」はそこから始まった。
(「愚者の旅」一五九頁〜一六〇頁)

 二〇〇四年で二〇周年を迎える富良野塾もまた、始まりはテレビ界への憤りだった。

 テレビの現場に二十五年いて唖然とする程淋しくなるのは、役者にしてもライターにしても実に新人が育って来ないことである。(中略)
 今その絶頂期にいるテレビは、その膨大な黒字利益を、不動産や様々な関連産業に次々と投資して行きながら、しかし殆ど新人を育てることには使わない。
 そのことにかねがね腹を立てていた。
(中略)
 富良野で私塾が開けないものか。
 そういう発想が僕に芽生えていた。
(「谷は眠っていた」一六頁〜一七頁)

        

 もう一つ気付くことがある。
 その種火の持続には「ワケ」が在るのではないか。一連の歩みの中で、倉本は常に自分を物事や社会の本流から一歩離れた所に置いてきた。東大卒、ニッポン放送入社、そして今日に繋がる脚本家としての歩みはむしろ本流中の本流のはずだが、倉本はあえて自らを「落伍者」「堕落者」、そして都会からの「落人」と呼ぶ。好き好んでそうしているのではなく、その時々は夢中で必死だったはずだが、振り返れば常にアウトサイダーたろうとする独特のバランス感覚がある。
 それこそが、種火の原動力とは言えまいか。
 東京大学に進みながら四六時中劇団の稽古場で過ごし無頼をかこった学生時代。
 ニッポン放送に就職しながら脚本家としての内職を続け、ついにはフリーランサーにドロップアウトした青年期の落伍感。
 三〇代にしてNHKの大河ドラマ「勝海舟」の脚本家に抜擢されながら、世事に敗れて北海道に出奔した挫折感。
 そして富良野に居を構えてすでに四半世紀。中央に対して常に「辺境」をベースとし続ける異文化の視点。
 倉本の定位置は、常に中心から一歩外れた「異端」にある。
 その感覚こそが、倉本の創造の始点となっている。

 振り返れば活字世界での倉本の登場もまた、「異端」ゆえの新鮮さにあった。

        

「初めて倉本さんのシナリオ集の出版を進めていた時、取次ぎ各社から大反対を受けました。そんなの売れるはずがないって。事実、私どもの社でも大昔にシナリオ集を出版していましたが、経営が傾いてその版権は手形のカタに他社に取られているんです」
 活字の世界での倉本の盟友、理論社会長の山村光司が言う。
 時は一九八〇年、倉本が「北の国から」を書き始めた頃の事だった。
「当初、倉本さんに小説を書いて頂きたいと思ってお会いしました。子ども二人を主人公にして、電気も水道もない富良野の生活を小説にしませんか、と。ところが企画を進めているうちに、ある日突然倉本さんが俺は小説家じゃないからシナリオしか書けないと言い出した。そこからが産みの苦しみでした」
 当時も今も、シナリオ集の常識は初版三〇〇〇部がいいところだ。如何にテレビドラマとはいえ、今のように書店にノベライズのコーナーがあるわけではない。
 困った山村は一計を案じた。
「取次ぎの大手の東販にでかけて、営業担当者を集めて倉本さんの講演会を企画しました。とにかく一度倉本さんの世界を感じて欲しいと。フジテレビの撮った「北の国から」の映像も用意して、それを見せながらドラマとシナリオの魅力を倉本さんに語ってもらったんです」
 会議室をギッシリ埋めた若手営業マンに対して、倉本は言った。
−−−感動があればそれは文学です。
 それは、書店におけるシナリオの異端さを認めながらも、そこにある本質を見届けて欲しいという必死の叫びだったはずだ。
 同時に山村は朝日新聞にも出かけ、記者に「シナリオ文学旗揚げ」という持論を展開した。やがて八一年一〇月九日。日曜版にそのタイトルの記事が載る。読者には、シナリオ文学という新ジャンルは新鮮だった。
 当初出版された「北の国から」シナリオ集前後編は少年少女向けだった。デザインも山村本人が手がけた。その後一般向け書籍も出版され、前後編合わせて四十万部ものベストセラーになっていく。
 活字の世界での倉本聡もまた、「異端」からのスタートだったのだ。

        

 異端者として種火を燃やし続ける事。
 倉本聡という存在は、そのコンプレックスへの凄まじいエネルギーに縁取られている。「富良野の生活でまず驚いたのは、先生のエネルギーと切り替えのうまさですね」
 都内の喫茶店でそう語ったのは、富良野塾一期生、現在シナオリライターとして活躍する石井信之だった。
 一九八四年、霞が関の公務員を辞めて六日目の石井が富良野に入ると、そこには廃屋を改造した管理棟があるだけだった。稽古場は丸太小屋で建設途中。宿泊所はなし。風呂もなし。
 何より不安だったのは、塾の基本方針はあったものの、生活の基本方針は全て自分たちで創らなければならないことだった。
 会計担当となった石井は、東京で行われたミーティングの中で食費を一人一日九〇〇円と割り出した。
 総予算五〇万円÷一八人÷三〇日。
 ところが生活を始めてすぐに甘さに気付く。現実に確保出来たのは一人一日二八〇円。
 九〇〇円−二八〇円=六二〇円。
 その差こそが、都市生活と富良野の原始共産生活とのギャップだった。石井は疲弊した。もちろん仲間も。一年目、ついに二人が脱落していくほどに。
 けれどその中で、倉本は一人エネルギッシュだった。
「当時先生は「北の国から」のスペシャルを書き、「昨日、悲別で」を書き、「ライスカレー」も書いていたんじゃないでしょうか。夜七時に二十キロ先の自宅からジープでやってきて、授業を九時過ぎまでして戻られる。その後酒も飲んでいましたから、いつ書いていたのだろう。集中力のある人だなぁとしみじみ思ったものです」
 現在、原稿用紙に独自の世界を創造する仕事を「生業」として始めてみて、石井は改めて思うという。
−−−〆切に背中をおされずに書き出すのが凄い。
 当時倉本は、ドラマ一本書くのにほぼ一〇日のペースを守っていた。ドラマの大枠を決める「大箱」と呼ばれる作業に三日。それを細かくする「中箱」に二日、小箱に二日。シナリオ化に一〜三日。
 常に〆切前に作品ができあがっている。
 ドラマやエッセイのネタをメモするネタ帳も、常に手放さなかったという。
「だからといって僕らの生活がそのままドラマのネタになるわけじゃないんです。二、三年後にそれらしいシーンがあったなぁという程度です。もちろん生徒が考えたネタをパクるなんてことはないし、僕らを自分の仕事の小間使いに使ったこともありません。そういうところも自分に厳しいし、計り知れないエネルギーの人ですよね」

        

 そのエネルギーはまた、尋常ではない執念深さにも繋がっている。
 例えば石井が語った「ライスカレー」という作品は、当初日本テレビで放送されるはずの作品だった。ある日倉本のもとにカナダ人ビジネスマンが訪ねてきた。富良野のように、テレビドラマの力で若者にカナダの魅力を伝えたい。ついては連邦政府も全面協力する。ワーキングホリデーを利用する若者を誘致したいのだ。
 ところが。何本かのシナリオができいよいよロケーションの準備にスタッフがカナダに出発するという段になって、日テレの上層部がNOと言ってきた。
 困り果てた倉本は、怒る暇も亡くフジテレビに出掛けていく。当時編成局長、現会長の日枝久に直談判し、この段階で見事に企画ごとそっくりフジテレビに移してしまう。
 まだある。
 勝新太郎の晩年、「○○」という作品を勝のために書いた事があった。老シナリオライターの物語だ。
「どうしてこんな役を俺がやるんだ」
 病院を出てきたばかりの勝新は、ビールを飲みながらそう言って目を剥いたという。
 そこから数時間。倉本対勝新の最初で最後の作品を挟んだ火花が散った。
「あんたは人間の悲しみや微妙な影を今最高に演じられる役者だ。そういうあんたを俺は見たいンだ」
 勝新は黙った。やがて、
「俺のホンの読み方が浅かったのかもしれない。もう一度読んでみる。時間を少しくれ」
 最後、勝はそう言った。けれど勝にはその時間がなかった。約一カ月後。勝は逝く。
 だが倉本はその作品は逝かせなかった。その後杉浦直樹を主役に迎え、見事芸術祭大賞に輝く。
 全て倉本のエネルギーのなせる技であり、それを支える種火の強さの証明だ。

         

「倉本さんとのお付き合いは二五年になります。それは編集者として身も心も捧げた、かけがえのない私の時間でも在るんです」
 幾多の児童文学の受賞トロフィーが並ぶ理論社の小さな会議室で、山村が言う。同時に山村が取り出したのは、分厚い「北の国から」全集だった。八四年のシリーズと八本創られたスペシャル編まで、全てのシナリオが一冊になっている。定価七〇〇〇円。その出版は、自身の集大成でもあったはずだ。
 さらに山村は、一〇部だけ総皮の特別装丁本も創った。倉本をはじめとする関係者への感謝の印だという。
 有名な話だが、倉本は様々な雑誌にエッセイを連載しそれが完結するとまず理論社に電話をかける。
「おたくで出しませんか」
 その結果、理論社は連載時の苦労を経験することなく倉本本のラインナップが増えていく。
「何かご褒美みたいなものですよね」
 山村が笑う。
 それは、かつてシナリオを文学に昇華してくれた恩人への、倉本の返礼なのだろう。
 もうその関係も、やがて四半世紀を迎える。
       
 ここにも種火が燃えている。
 それは、倉本の優しさの原点として。


 

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